自己啓発本と哲学書の違いは何?調べてみました!

最近、自己啓発本と哲学書の違いはなんだという議論が話題ですね!

そこで今回は自己啓発本と哲学書の違いについて自分なりに調べてみました!


自己啓発本

調べてみると、自己啓発本とは『人は話し方が9割』とか『嫌われる勇気』とか『夢をかなえるゾウ』といった、Twitterで自分のイラストアイコンを使って、「毎月100冊読書」とか「副業収入〇〇円!」とか「厳しいこと言うけど〜」とか言ってる人が読んでそうな本のことだそうです!

ちなみにwikipedia「自己啓発書」で検索してみると、以下のように書いてありました!

自己啓発書(じこけいはつしょ)とは、人間の能力向上や成功のための手段を説く、自己啓発を目的とした書籍。自己啓発本、セルフヘルプ本、自助本とも。

主に人生について取り扱う分野であるため人生書の一種とも考えられ、人生指南書などの表現も存在する。ハウツー本(ノウハウ本)、実用書、ビジネス書なども関連ジャンルであるが、スピリチュアル的な要素や非科学的な内容の場合が多いため、心理学書などの学術書とは区別される。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/自己啓発書

どうならビジネスに(直接)役に立つ本だけではなくて、生き方の指南になるような本の総称みたいです!

たしかに『嫌われる勇気』はアドラー心理学というフロイトの精神分析くらいはちゃんとした学問みたいですし、『ユメをかなえるゾウ』はだいたい小説なので、これらをビジネス書とひとくくりにするのは難しい気がします。

強いていうなら「その人の悩みを解決するような格言が入っている本」くらいにまとめることができるかもしれません。ただしこれだと広すぎるので「ある特定の悩みを持つ読者に対して、その悩みを解決に向かわせるための具体的な行動や格言が意図的に書かれている本」くらいがいい塩梅かもしれません。『嫌われる勇気』はアドラーがどう思って書いたのかは知りませんが、タイトル(あくまで日本版ですが)で読者を「嫌われたくないよ〜😭」と悩んでいる人に既定しているので、その意味では自己啓発本といえるでしよう。

自己啓発本の特徴をまとめるとこんな感じになります!

  • ビジネスシーンに限らず、生き方を指南する本の総称

  • タイトルによって読者を既定する

  • 読書の特定の悩みに対して具体的な解決策を示す、「役にたつ」本である

  • 具体的な解決策が書いてあればいいので、小説や思想書の形を取ることもある

哲学書

哲学書とは、哲学者と呼ばれる人が書いた、なんか難しいことが書いてある本の総称です。

その特徴は、何を言っているんだかよくわからないことです。なにかよくわからないことが書いてあるテクストを、入門書を読んだり読書会を読んだりしながら、なんとか意味を解釈できるようにする営為です。ひとによってはこれを「知の営み」と呼んだりするそうです。

わからないことがなんなのか自分ではわかりませんから、わからないことに気付けるようになるには偶然性が必要です。自分では気づくことができないことを発見するためには、ある種の主体的な謎解き(発掘といってもよいかもしれません)が必要であって、そのためには難解な文章を読む必要があるのです。この点で、特定の問題に対して具体的な解決策をわかりやすく明示する自己啓発本と哲学書は大きく異なります

ただしこのように哲学書を読む態度は哲学研究をしている人には嫌われるかもしれません!なぜなら哲学研究をしている人は「わからないことがわかるようになって良かった〜快感!」で済ますことは許されないからです。彼らが主にやろうとしているのは妥当な解釈を論証することであって、そのためには哲学の難解な言葉を同じ畑の人に伝わるような精度で運用しなくてはならないからです。これを放棄や疎かにして、哲学の「わからないことに気づいて自己を拡張する」機能だけを信奉してしまうのは、誠実でないようにみえてしまいます(仮にそれが哲学の本来的な機能だとしても)。

哲学書の特徴をまとめるとこんな感じになります!

  • 哲学書は難解な文章である

  • 難解で意味のわからない文章をもがきながら読むことで、わからなかったことがわかるようになる

  • なにがわかっていないのかは自分ではわからないため、発見には偶然性が必要

  • 以上のように哲学書を読むことは主体的な「知の営み」であるのに対し、自己啓発本は特定の悩みに対してあらかじめ答えが明示されているので、受動的な読書にしかならない

  • ただし、このように哲学書を読むことと哲学研究はけっこう違う

哲学だけど自己啓発本っぽい本

ただしこう考えてみるとこれって哲学なのか自己啓発なのかわからない事態に遭遇します。

たとえば愛について知りたくて、フロムの『愛するということ』を読むのは哲学的な営みなのか?哲学者の格言集は哲学本なのか?などです。

前者はそれなりに哲学だといえそうです。なぜなら『愛するということ』には豊穣なテクストがあって、愛についての先入観が取っ払われることがあるからです。

ですがこう考えると哲学書と自己啓発本の明確な違いがなくなります。だって自己啓発書で新たな発見をすることってあるでしょう。解決案を具体的に明示しているかどうかは判断が難しいですし、すこしでも論理的な文章を書く気があるならば自分の主張は読者に伝わるようにする必要があり、それは哲学書も例に漏れません(あえてわかりにくく書く哲学者はいるにはいますが)。

哲学書と自己啓発本の違いは、解決策を明示しているかどうかと、偶然性があるかどうかだと言ってきましたが、偶然性についてはどうでしょう。

これも明確に割り切れるものではありません。エロティシズムについて知りたいからバタイユを読むわけですし、他者との関係を考えたいからレヴィナスを読むわけです。そもそも本を読む時点で何かしらの目的を持って手に取っているわけで、全くの偶然で本に出会うことなんてないのです。

もちろん本を読み進めるうえで偶然の出会いというのもあります。ただしここのレンジの差は哲学書と自己啓発本で差はありそうです。偶然の出会いを主体的に選び取ることが哲学とするなら、例えば、恋愛の自己啓発本を読んで「この著者はそもそも女が嫌いだからこんな本書くんだよな。そう考えると自分にも同じようなところあったわ」と考えたら、それは哲学的営みといえます。作者の意図の埒外を自ら発見するのには、じゅうぶんな偶然性があります。ただしそれは正当な自己啓発本の読み方ではありません。

哲学書の場合は作者の埒外かはともかく、難解な文章のなかに偶然性が内在しているといえます。ですからタイトルに惹かれて読んでも、文章のなかに偶然性は担保されます。

それでは哲学者の格言集は哲学書なのでしょうか。これは微妙なところだと個人的には思います。まず、編者による恣意的な文章のピックアップによって読みを誘導されるので、読みの主体性はそこなわれます。さらに文脈から抜け出して使える格言だけをありがたがるのは、要点をかいつまむファスト教養としての自己啓発本の最たる例といえるでしょう。

ただし普通の自己啓発本との違いは、やはりテクストのわかりにくさでしょう。おそらくそういう本は編者による解説がついていることが多いですが、編者のガイドによって一人では読めなかった文章が読めるようになるのは、それなりに哲学的です。しかしひとりで文章と格闘するよりはだいぶファストですが、一方で編者という他者によって気づきが与えられるというのは、読書会のような哲学経験といえます。

哲学だけど自己啓発本っぽい本をまとめるとこんな感じになります!

  • 哲学書であっても偶然本に出会うことはないという点で自己啓発本と同じ

  • 哲学書は難解な文章のなかに偶然性が宿る

  • 哲学書であっても著者は自分の主張を読者に伝わるように書くため、読者は本を”読まされている”という点で自己啓発本と同じ

  • 自己啓発本であっても、著者の埒外から気づきを得るという哲学的な読み方はできるが、それは正当な自己啓発本の読み方ではない

  • 哲学者の格言集は自己啓発本に近いが、編者と哲学書の読書会をするのとも近い

ビジネスパーソンが読む哲学書

最近はビジネスのために哲学書を読めという風潮もあります。いわく、世界のビジネスパーソンは哲学書を読んでいるから、同等に話すためにも哲学書を読めということです。

東洋経済、ダイヤモンドオンラインなどでこの数年いろいろ特集されているみたいです。そういえば最近千葉雅也の『現代思想入門』がけっこう売れているのも当然無関係ではありません。

『人新世の資本論』『22世紀の民主主義』『運も実力のうち』などなどの教養本がビジネスパーソンに愛読されています。これらを哲学書と呼ぶかはおいといても、人文的な知がビジネスに結びついてきているのが最近の潮流といえます。

これはいったいなぜでしょうか。ひとつはやはり哲学書と自己啓発本の線引きが曖昧になっていること。哲学書の自己啓発本的読解や、自己啓発本の哲学書的読解が可能になったことが原因だと考えられます。

哲学書を読んでいるという人も、だいたいの人が哲学書の頭からお尻まで精読しているわけではありません。その読みは一部をピックアップする自己啓発本的読み方ともいえますし、自己啓発本も哲学書、といわないまでも学術的な新書との区別はだいぶなくなりました。

心理学の自己啓発化なんかは最たる例です。よく「ハーバード大学の研究では〜」みたいなことをメンタリストが言っているイメージがありますが、あれは一応心理学の知見ですよね。心理学の研究「結果」だけが、その研究手法や実際の歯切れの悪い結論は捨象され、有名海外大学の印篭のもと、歯切れよく解釈された「結論」だけが、さも真実のように扱われます

これはかなりよくない風潮ですが、学問の「研究結果」が都合よくファスト教養になる風潮が、哲学にも広がっているのかもしれません。

しかしもちろんそれだけではなく、難解な文章を紐解く楽しさ、権威のある文章を読む高揚感、読めば発見のある哲学書の自己啓発本としての優秀さなどが相まって、ビジネスパーソンにも哲学書がウケているとも考えられます。

ビジネスパーソンは哲学徒と違って哲学書も自己啓発本も読みますので、それらは並列に読まれます。哲学書がファスト教養になるのは勿体無いですが、両方読むことで自己啓発本を批判的に(も)読めるようになると、それはすごく強いと思います。

ビジネスパーソンが読む哲学書をまとめるとこんな感じになります!

  • ビジネスパーソンが哲学書を読み始めている

  • 自己啓発本と人文知の本の区別はだいぶなくなっている

  • その弊害は心理学のファスト教養化である

  • 一方で、自己啓発本を哲学書のように読めるビジネスパーソンも出現しうる

哲学本の読み方ハウツー本

最後に、哲学本の読み方ハウツー本は何たるかを考えてみます。

『現代思想入門』にもこの側面はありますし、『難解な本を読む技術』『読んでいない本について堂々と語る方法』など、本の読み方の指南書が最近は人気です。

この指南書という役割は、自己啓発本に近いです。即役に立つ技術を獲得する本、というのは哲学徒に嫌われそうですがそうでもありません。これはなぜでしょう。

ひとつは哲学徒の欺瞞でしょうか。有用性の原理に回収されない発見が尊いんだぜといいながら、だからといって有用性から完全に逃れられるわけがないし、逃れる気もそんなにない、という欺瞞です。なんか哲学だけそこから逃れられるように錯覚(あるいはそう信じ込む)し、特権化する行為です。だからこそ何の躊躇いもなく読み方ハウツー本を読むことができます。

役に立つことは役に立たないことよりも良いことです。ただしすぐに役に立つことばかりに腐心してしまうと、自分が「わからない」局面に遭遇したときに、それに耐えられなくなってしまいます。そして行き着く先はすぐに答えをくれる陰謀論に一直線です。

もちろんわからないことを楽しむ文章なんか読む暇もないし、それを読めるのは特権階級だけだ!という批判は極めてまっとうです。恋愛なんかは相手がどう考えているのかわからないのを悶々と楽しむ機能があったはずですが、いまではもう過去の遺物です。そう考えると哲学書を読むのは人間関係よりは手短にわからなさを提供してくれる有用なツールです。値段も安価で、ひとりからできます。

結局は有用性原理に回収されてしまった哲学本ですが、もうそれでいいのです。ひとつ本読みに言えることは、食わず嫌いをしてもいいが、本との偶然の出会いを大事にしてほしいということです。読まないジャンルにふと出会ったときに、新しい気づきを得ることができる余裕と心の豊かさを持てる暮らしをしてほしいのです。

哲学書の読み方ハウツー本をまとめるとこんな感じになります!

  • 哲学書の読み方ハウツー本は即役に立つという点で自己啓発本的である

  • しかし批判が少ないのは哲学徒の欺瞞による

  • 哲学は役に立たないのがよいと言いつつ、結局は有用性原理から逃れられないし、もしかしたら逃れるつもりはないのかもしれない

  • しかし、わからないことに耐える訓練はしないといけないし、その点哲学書は「有用」である

いかがでしたか?

いかがでしたか?

調査してみたところ、残念ながら自己啓発本と哲学書の違いはわかりませんでした!

ですが簡単に割り切れるものでもないことがわかりました!

今後の自己啓発本と哲学書の活躍に期待したいですね!

おわり

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