好きな現代アート(?)の作品①

わたくし、実は美術館とか芸術祭に割と行くタイプの人間です。とはいえ絵画の教養とかはあんまりないので、立体物とかインスタレーションを好んで見に行きます。特に世代の近い人間がどんなものを作ってるのかにはけっこう興味があって、それで美大の卒展とかは毎年行ってるわけです。

それらをざっくり「現代アート」とまとめてしまいますが、まーわかるようなわかんないようなそんな感じなわけです。せいぜい「日常を少しずらして再発見する」「自分が抱えるモヤモヤをユーモラスに立体化する」みたいな作品は理解できるものの、好みではないわけです。←ならちゃんと美術や美術史の勉強をしなさい。

ただし、そんなわたくしでも印象に残っている作品はあるわけです。今回からは連載として好きな作品を気の向くままに取り上げてみようと思います。noteに何か書きたいけどネタないな〜ってとき用の連載にしたいと思います。果たしていつまで続くかな。

竹内公太《録画した瞬間それは覗きになった》(2011)

震災やアフター震災を取り上げた作品は国内に数多ありますが、個人的に一番好き、というかゾッとしたのが、竹内公太《録画した瞬間それは覗きになった》(2011)という作品です。

これはMOTにクリスチャン・マークレー展を見に行ったときにたまたまコレクション展かなんかで見た記憶があります。コンセプトはこんな感じ。

《録画した瞬間、それは覗きになった》は、「指差し作業員」との関連が推察されている竹内公太(1982-)が、2011年3月12日から14日にかけてコンピュータを使って震災についての情報を収集する様子を自ら録画した映像です。rn竹内は録画ボタンを押した瞬間から、災害時にあるべき正しいふるまいを強制され、被災地域の様子を覗いているようで、同時に誰かに覗かれるような、奇妙な緊張感を感じたといいます。それはこの映像を見る私たち、記録を振り返る未来の人々、あるいは「指差し作業員」からの視線かもしれません。

https://museumcollection.tokyo/works/6384930/

要は東日本大震災が起きた際に情報をかき集めたときのパソコンの画面の録画みたいな作品です。けれどもそれだけではなくて、作品にはヘッドフォンもついていて、そのパソコンの前に座ってヘッドフォンを装着すると、当時のニュースだかラジオだかの音声が流れてくるんですよね。

これ、めっちゃ怖い体験ですよ。解説を見ると竹内が当時抱いた「録画した瞬間、それは覗きになった」という体験をただ作品にしただけじゃなくて、それに付き合わされる我々にとってはあのときの追体験ですよ。もう心臓バクバクですよ美術館に来たのに!

そもそも、震災がテーマの作品にとって論点になるのは当事者性、もっというと当事者じゃない我々(そもそもこの線引きはなんだ)に何ができるのか、何をしていいのかというお倫理の問題があるわけです。でもそれで迷いを作品にした作品を見せつけられても、鑑賞者の我々にはその苦しみは伝わってもイマイチ心には響かないわけです。

でもこの作品のリアリティは、ものすごい勢いでこちらに迫ってきます。それは「エ〜シ〜」という音を聞くとあのときが蘇ってくるのとは近いけど少し違っていて、能動的に情報をかき集めたあのときの切迫感、さぐりさぐりの緊張感、どんどん死者数が増えていくニュースに対する絶望のなかそれでもネットをサーフィンをした、あのとき、あの頃の完全に忘れていた情動をレトルトパウチに詰めたような恐ろしい作品でした。

そしてまさにそのようすは指差し作業員に監視されていました。このメタ構造も怖かったです。指を刺されながら私はヘッドフォンをアルコール除菌して装着し、そしてパソコンに向かい合います。その指は単なる監視ではなく、美術館という安全圏でお気楽に震災アートを鑑賞している自分の罪悪感や、罪悪感をもつことで防衛機制を図ろうとする自分をすべて見透かすような、恐ろしい、確かに存在する視線でした。

おわりに

けっこうヘッドフォンなりVRゴーグルをつけさせて鑑賞者になにかを追体験させる系の作品って、無理矢理作者にやらされている感、付き合わされてる感が残るのがほとんどなんですよね。それはそれで嫌いではないのですが、この《録画した瞬間、それは覗きになった》は作者に付き合わされてる感じは一切なく、異様なリアリティを喉元に突きつけられました。その後遺症は、まだ残っています。

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