2022.2.24 楠木正成の大河ドラマに反対!by左翼
「こんな仕打ちを受けるなら天皇を辞める…」
19世紀幕末。
当時の天皇、孝明天皇は怒りに震えていた。
当時の記録にも、
「甚だ逆鱗のご様子を隠せず」
と残っている。
一体、孝明天皇は何に激怒していたのか?
それは、江戸幕府が勝手に結んだ不平等条約『日米修好通商条約』に関してだった。
日本の港で休ませろ。
水や食料を調達させろ。
黒船という武力を見せつけ、ほとんど脅しに近い形で開国を迫った。
外国人が日本で窃盗、殺人、レイプなどの違法行為をしても、野放しにさせるのと同義の効力を持つ領事裁判権を認めさせた。
日本の伝統的な農産物や工芸品などを、他国の安い大量生産品から守るための関税自主権を日本は持つことを許されなかった。
そんな日本の伝統やプライド、未来を脅かす不平等条約。
孝明天皇は、その締結が日本にとって、どんなに悪いことか分かっていた。
そのため、当然大反対していた。
にもかかわらず、幕府は、この条約の締結を強行。
幕末の“悲劇”はここから始まったのである。
条約を結んでからというもの、それまでほとんどなかった米の打ちこわしが大量に行われるようになった。
開国の結果、外国の安い製品が日本の伝統産業に大打撃を与え、物価が急激に上昇。
主食である米は通常時の6倍にまで跳ね上がり、都市では富裕な町人による買い占めが横行…。
結果、民衆の間では、餓死者が大量に発生する大惨事となった。
この状況を目の当たりにし、幕府内部でも反発は起きていたが、実権を握る幹部たちは、反乱分子を見つけては次々に幽閉、そして処刑…。
幕府の暴走を止められる者は、誰一人としていなかった。
人々は困窮を極め、反発する気力すらも失くしていった…。
「幕府はどうなっているんだ…。」
「明日食う飯がもうない…。」
日本全体が絶望に覆われそうになる中、諦めずに戦う男たちの姿があった。
それは意外にも、当時、権力を握っていた幕府に追いやられ、力の無かった“地方の藩士”たちだった。
「日本を守る」
「日本を強くしよう」
そんな気持ちが彼らを駆り立てたのである。
しかし、その道は長く険しいものだった。
なぜなら、立ち上がった多くの藩士は20~30代の若者。
対して、相手は260年もの歴史を持つ、日本全土を握っていた巨大組織『江戸幕府』。
反旗を翻すための戦力も、差は歴然。
負けてしまえば処刑は確実。
もしかしたら、自らの親、妻、子供にまで、その矛先が向くかもしれない…。
「もし、負けたら…」
挫けそうになる者も多くいた。
それでも、七度生まれ変わっても国に報いる『七生報国』を合言葉に、若者たちは自らの志を信じて戦った。
その結果、餓死者が急増し、国力は衰え没落してもおかしくなかった日本で、
「日本を守ろう」
「俺たちも闘おう」
そう口にする人が増えてきた。
外国に対しては弱腰で、日本のためには何もできなくなった幕府に対して高まった不満。
その支配から逃れるために天皇、日本のために腐ってしまった幕府と闘う…。
そして、天皇中心とした古き良き時代を再生して、『新たな日本』を創る…。
それが『明治維新』だった。
激動の幕末という時代。
強大な幕府相手に、志士たちは自らの命も顧みず闘った。
一体、何が彼らを動かしたのだろうか?
実は、あの時代を戦った志士たち…。
例えば、吉田松陰も、坂本龍馬も、西郷隆盛も皆が憧れ、彼らの行動指針としていた1人の人物がいた。
時は南北朝に遡る。
味方だった足利尊氏に裏切られ、絶対絶命の状態だった当時の天皇『後醍醐天皇』。
圧倒的な足利軍の力に敗北はほぼ確実…。
しかし、そんな中、たった一人、
「天皇に忠義を貫く」
と最後の最後まで、天皇のために戦った男…。
「七生滅賊」と言葉を残し、『七度生まれ変わってでも国賊を倒す』そう誓った男…。
500年の時を経て、明治の志士たちを突き動かした男がいた…。
その男の名こそ、“楠木正成”。
明治の志士たちが自らの命も顧みず、江戸幕府と最後まで戦い抜けたのは、楠木正成の精神を学び、行動指針にしていたからだった。
事実、維新の志士を多く育てた吉田松陰は、その松下村塾に『七生滅賊』の掛け軸を掲げ、その教えを門下生たちに説いていた。
明治維新の立役者である薩摩藩の西郷隆盛も自ら作った漢詩の中で、
<生まれ変わるなら、青い蛍として、楠木正成の墓のそばに生まれたい>
と詠っている。
同じく薩摩の大久保利通は、大阪府千早赤阪村にある楠木正成の生誕地を訪れた際、
「王政復古を成し遂げたのは、皆、大楠公(楠木正成)の遺志を継承して国に尽くしたからだ」
と、その史跡の保護を指示し、顕彰のための寄付をしている。
また、長州藩の木戸孝允は、アメリカが開国を迫っていた時、
<この国難を乗り越えるためには楠木正成の様な有能な人材が必要だ>
と手紙に書き記した。
そして、彼ら薩長を繋げた坂本龍馬は、市の勝海舟と共に、正成の墓所へ参詣したり、愛用の短刀は楠木正成の短刀を模したものと言われる。
このように、明治維新を扇動した志士たちには、楠木正成の精神が血液の如く流れており、彼らの明確な行動指針となっていた。
そして、この楠木正成の精神は、その後も血統のように受け継がれていく。
例えば、明治天皇は、国家に功績のあった人を祀る別格官幣社として、一番最初に楠木正成を祀る湊川神社を創建。
日本海海戦を戦った東郷平八郎は、その時に打たれた船のマストをその湊川神社に奉納し、大東亜戦争においても、七生隊や楠木家の家紋である菊水にちなんで菊水隊など、楠木正成を彷彿させる小隊名がたくさん作られた。
維新からたった26年で中国との戦争に勝ち、その10年後には巨大なロシア。
そして、遂には大国アメリカに鬼気迫る勢いで戦えるまでに成長した日本。
その成長の裏には、楠木正成という一人の武将。
そして、その精神を受け継ぎ、日本を守ろうと奮闘した人々がいた。
楠木正成のDNAを受け継ぐことで、戦前の人々は豊かで繁栄した“新時代”を切り開いた…。
このように、戦前の人々は、楠木正成の精神を受け継ぎ、激動の時代を生き延びてきました。
しかし、私たちは、楠木正成のような偉大な日本人を学校で教わりません。
教わっても歴史の教科書で3行程度。
<後醍醐天皇は楠木正成らと共に戦った>
くらいなものです。
そのため、今の日本人は楠木正成の偉大な精神を知ることができません。
ですが、今でも楠木正成の精神が、しっかりと受け継がれている場所が唯一存在します…。
それが神社です。
現在の日本を形作った偉人、日本を守るために戦った英雄は、単にその功績を称えるだけでなく、神として神社にお祀りするという文化が日本にはあります。
過去記事でも触れましたが、例えば、大化の改新を起こし、蘇我氏の権力暴走から天皇を守った藤原鎌足も、道鏡の嘘を見抜き、皇室の継承の危機から救った和気清麻呂も、100年以上続いた戦乱の世を治め、平和な社会の基礎を築いた徳川家康も、みんな神様として神社に祀られているのです。
そして、楠木正成もその一人です。
兵庫県神戸市多聞通には、彼を神として祀る『湊川神社』があります。
また、楠木正成が少年時代に学んだ場所とされる大阪府河内長野市にも、彼を祀る楠公神社が建てられています。
今も神社には、尊敬された人物の功績やその記憶が確りと残っています。
たとえ文献資料に残されていなくとも、神社を通して歴史を見ていくことで、昔の日本人がどういう感性を持ち、何を大切にしていたのかがよく分かってきます。
しかし、戦後GHQは、神道こそが日本の強さの根源であるとして、日本人と神道との繋がりを断ち切ろうとしました。
このような思惑から出されたのが『神道指令』です。
神道や神社は徹底的に日本から排除されていきました。
<学校と神社のあいだの距離>という教科書の文例には、“神社”という言葉を“郵便局”に置き換えられました。
<一人の少年が村の神社の前に住んでいた>という文例は、間接的に神道に触れるところがあるという理由で削除されました。
もちろん、神武天皇を始め、皇統にまつわる歴史、伊勢神宮などの神社の歴史は例外なく削除されました。
そして、これらの変更は、生徒たち自ら筆を持って、真っ黒な墨で塗りつぶさなければなりませんでした。
こうした徹底的な改革の結果、日本の教科書からは、神社にまつわる歴史は全て消され、それどころか“神社”という言葉すらほとんど登場しない始末。
登場するとすれば<靖国神社問題>など、日本を貶めるような表現しかないのが実情です。
しかし、ここまでのことをさせたGHQの宗教課長であるウィリアム・バンスは、神道や宗教に関する知識を全く持っていなかったそうです。
単に戦勝国だからという理由で、日本の神道も宗教も全然知らない人間によって、これまでの日本の歩み、日本人の歩みを教えてもらえなくなってしまいました。
先人たちが何を大切にし、何を必死に守ってきたのか、どんな思いで歴史を繋いできたのか。
私たちはその歴史を受け継いでいるはずなのに、どこか遠い世界の話のように感じてしまう。
敗戦から76年、日本の歴史、私たちの歴史は、既に多くの日本人の記憶から消えつつあります。
このままで良いのでしょうか。
学者や教科書というのは、ある時代を境に主張が180度変わってしまうことがあります。
でも、神社だけはそうではありません。
神社における人物への評価、歴史に対する評価は、変わることなく今に伝わっています。
神社から歴史を紐解いていき、ありのままの日本の姿を蘇らせて行くことで、2600年も絶えず日本国を繋いできた先人たちを知ることができ、私たちは本当の意味で、心から日本を愛することができると思います。
今回は、GHQに抹消されてしまった日本の記憶を取り戻し、先人たちから受け継がれてきた歴史のバトンを、また次の世代に託していかなければならない。
そして、日本に対して誇りを持ち、自分自身にも誇りを持つことができる日本人を増やしていきたいという思いで書き綴ってみました。
今回も最後までお読み頂きまして、有り難うございました。
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