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2021.8.17 1500人以上殺害…政府が隠した男の罪

2万枚の史料が暴いた“殺人鬼”の正体

「密告者にならないか?」
検事は一言、男をCIAへと誘った…。
1946年4月。
東京裁判が開廷する1ヶ月前。

巣鴨プリズンで、1人の男の訊問が行われていた。

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検事が
「公正な裁判をするために、我々、検事を助けてはくれまいか?君は政治上の事が非常に詳しいから…」

男は即座に答える。
「否」
「たとえ、私の釈放が早まったとしても、友人を売り、先輩を売り、国を売るような恥知らずの卑怯者にはならない」

男の頑なな回答に、検事の顔が険しくなる。
暫くして検事は諦めたのか、その日の訊問は終わりを迎えた。

巣鴨プリズンで行われた、GHQの検事と男の裏取引の一場面…。
一見、愛国心と誠実さに満ちたように見えるこの男だが…。

実は、半世紀以上にわたり、私たち国民を欺き続ける重大な秘密を隠し持っていた…。

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その男の名は安倍源基。
東京帝国大学法学部を卒業後、内務省に採用された、いわゆるエリート官僚である。
採用されて間もなく、そんな安倍に大きな転機が訪れた。

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「君を初代特高部長に任命したい」
なんと、新設されたばかりの特別高等警察の初代部長に任命されたのである。

特別高等警察:通称「特高」

それは「天皇暗殺」のような危険思想を持つ人物を監視し、国民の安全を守ることを仕事としていた組織だ。

当然、正義感に溢れた安倍は
「お国のために」
と喜んでこの役職を引き受けた。
こうして、戦前から日本が敗戦に至るまでの間、職務を遂行し続けた彼だったが、戦後、戦争に加担したとして、巣鴨プリズンへと収容されることに。

そして、CIAからの誘惑にも決して負けず、同じくA級戦犯になった同志たちを思い続けていたのである。

その想いは強く、A級戦犯の7名に絞首刑の判決が言い渡された日にも、
「戦争責任を強く感じる…友たちは絞首刑になり、残された妻子たちの心を思うと居た堪れない気持ちになる。」
彼は獄中でこのような言葉を残していた。

正に、誰よりも誠実さや正義を大切にしていたのであろう。
その素晴らしい人柄は、職務の中にも表れていた。

彼の談話の中に、このような発言がある。
「私は部下を使うにあたり、部下が誠実にやった以上は、いくら失敗しても責任を負う」
「その代わり手柄は部下にやる」
「部下に責任をなすりつけたことは一度もない」
まさに理想の上司そのものである。

そういうわけもあってか、晩年では「好々爺」(人の好いお爺さん)と言われていたほど、周りからの評価も高かった。

日本を愛し、部下を愛し、国を守るために、自らの責務を果たした日本男児は、多くの人に愛されながら95歳の長寿を全うし、最期は静かに息を引き取ったのだった…。

ここまでの話を聞くと、安倍は高潔で、立派な人物のように見える…。
が、しかし、この美しい話には裏がある…。

彼は、生涯決して誰にも言うことのない秘密を隠し持っていたのだった…。

その秘密とは一体何だったのか?

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実はこの男、数年間の間に1500人以上もの人間を死に追いやった殺人鬼だったのだ。

一体、どういうことか?
A級戦犯になる前、特高の初代部長を務めていた安倍。

特高は、「国家を守る組織」である。
と言えば聞こえはいいが、その実態は日本の秘密警察であり、
「思想犯はいつ殺しても良い」
という論法がまかり通るとんでもない組織であった。

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もちろん、特高が敵視していた「共産党員」の中には、本当に危険思想を持つ者もおり、こうした取り締まりは国を守るために必要なものであった。

しかし、彼らはやり過ぎてしまったのである。
事実、特高警察は、自分たちが怪しいと思った者は問答無用で逮捕していった。
「ただ絵を描いていただけなのに…」
「ただ小説を書いていただけなのに…」
そうした罪の無い人たちに対し、「取調べ」と称して壮絶な拷問を行い、次々と殺していったのである。

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実際、安倍が初代特高部長に任命された1933年のたった1年の間で、19名が獄死。

結局、安倍の在任期間中、「虐殺」「拷問」「病死」を含む獄中死は、総勢1500名を超えた。

その中の1人が、かの有名な小説『蟹工船』を書いた小林多喜二。

彼らの“取調べ”は、いったいどのように行われたのか?

小林多喜二逮捕の現場を見ると、特高の闇が見えてくる…。

小林多喜二、最後の日

寒空が広がる2月20日。

小説家の小林多喜二は赤坂の喫茶店で突然行方をくらませた。

目を開けた多喜二の前には、安倍直属の部下が3人。

3人は多喜二を丸裸にすると、両手両足を縛り、逆さに吊るした。
そして、そのまま何度も激しく頭を床に打ち付けた。

多喜二が気絶すれば、3人は茶を飲み、タバコを吸い、タバコの火を多喜二の丸裸の体に押し付けた。

そうして、拷問開始から3時間以上が経過。
午後7時45分に、多喜二は目も当てられぬ姿で息を引き取った。

翌日、多喜二の死因は「心臓麻痺」と発表。
ラジオの臨時ニュースと夕刊でも全国へと報じられた。
2月22日付の東京朝日新聞は
<捕縛された当時、大格闘を演じ殴り合った点が、彼の死期を早めたものと見られている>
と特高の死因説明をそのまま載せて報道した。

しかし、いくら偽りの報道をしても、遺体に刻まれた無数の傷は真実を雄弁に語る…。

「こんなことが許されていいわけがない」
当然、納得のいかない多喜二の仲間たちは、死因解明のため死体解剖を病院に依頼。

しかし、東京帝国大学と慶応大学病院は死体解剖を拒否。

唯一、慈恵医大病院だけが、
「解剖いたします」
と約束してくれたものの、解剖室に死体を運んだ直後、事態は急変。
突然、
「死体解剖はできません」
とこちらも辞退したのだった。

特高警察か、政府か…、ここでも何かしらの圧力が働いたのだろうか…。

結局、多喜二の死は「怪死」ということで、何事もなく片付けられたのだ…。

戦後を謳歌した犯罪者たち

もちろん、話はこれで終わらない。

阿部源基は「お咎めなし」どころか出世街道を進んでいく。
終戦直前、内務大臣まで上り詰め、東京裁判ではA級戦犯になりながらも釈放。
その後には従三位勲一等まで与えられた。

安倍だけでなく、彼の直属の部下たちも同じく出世街道を進み、1人は昭和天皇から旭日単光章と銀杯が下賜された。

ちなみに、この時、叙勲された12名の内10名が特高関係者である…こうした事実は決して明るみに出ることはなく、特高警察の「虐殺者たち」は戦後日本を謳歌し続け、それぞれが穏やかに息を引き取っていったのだった…。


こうした事実が、これまで私達国民に隠され続けてきたこと…。

そして、犯罪者たちが何食わぬ顔で戦後日本を謳歌し、評価されてきたことに沸々と怒りが湧いてきたと思います。

確かに特攻が、
「共産主義から日本を守った」
という側面もあるでしょう。
しかし、
「危険な思想を持っているかもしれない」
という理由だけで、壮絶な拷問で無実の人まで殺し続けてきた事実を隠蔽することが許されるのでしょうか?

もちろん、これらの罪を隠し続けてたのは阿部源基だけではありません。

戦後、本来裁きを受けるはずの特高警察関係者の数は、なんと1万500人ほどもいました。
しかし、なぜかそのうちの5000人以上もの関係者が罷免対象から外れていったのです。

そして、罪を免れた特高官僚たちは、素知らぬ顔で国会議員になったり、地方自治体の要職に就いたりしていきました。

アメリカ人特派員のマーク・ゲインは、
「我々は特高関係の連中を追放する指令を出したが、日本側ではどうしたか知らないが、ともかくそれを事前に嗅ぎつけた。そして、その指令が出る直前にこの連中は辞職した。日本側はこれで彼らの履歴は無傷だと主張する。日本政府はすぐさまその連中を警察署長に任命した」
と疑念を投げかけているほどです。

しかし、このような事実は、決して私たちに伝えられることはありませんでした…。

さらに、史料から蘇った特高の実態は、これだけではありません。

取調べと称して、作家の小林多喜二を拷問死させた男たちが『昭和の新撰組』と呼ばれ、日本政府の中枢や実業家として出世街道を歩んだこと…。

暴虐の限りを尽くした特高の初代部長である阿部源基を調べることで分かった、ある大物政治家との蜜月…。

特高ですら恐れ、手を出すことのできなかった巨大組織の存在…。
敗戦後、GHQから下された特高解散命令と1万人の特高職員のその後…。
そして現代に残る特高の後継組織の存在などが次々と明らかになりました。

さらに、特高警察が握っていた史料からは、共産党や国家権力の実態までが浮かび上がります。
ソ連のコミンテルンと日本共産党はどんな関係にあったのか?
なぜ、共産党は生まれたのか?
弾圧の中、活動を支えた資金源は何だったのか?
なぜ、今なお共産党は存在しているのか?

日本共産党が犯した日本初の大事件や権力におもねるか、信念を貫くか…。
弾圧の中を生きた共産党員の苦悩、共産党幹部・二大巨頭の転向劇と共産党を売ったスパイたちの暗躍など…。

特高警察自体は無くなったものの、その遺伝子を継ぐ組織も、政党としての日本共産党も今もなお残り、私たち日本の一部として存在しています。

でも、特高警察そのものについても、特高がそれほどまでに恐れた共産党についても、一般市民の生活を脅かした激しい“思想統制”についても、ほとんど語られることはありません。

当時の日本では、一体何が起きていたのか…。
これほど大きな出来事のはずなのに、なぜ学校やメディアで大きく取り上げられることがないのか。

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その理由は、日本がアメリカに降伏する前日、8月14日にありました。
戦前戦中の日本の悪事が占領軍にバレないように…、と時の政府は閣議によって機密文書の破棄を決断。
特高に関する記録もこの中に含まれ、焼却命令が下ったのです。

「山成す書類を暑い日差しの中で次々にドラム缶に投げ込み、まる2日間かけて焼いた」
元特高職員のそんな証言が残されています。
そして、真実が表に出ないことをいいことに、当時特高警察の上層部にいた人たちは、歴史の上塗りを行いました。

回顧録やインタビューなどでは、拷問などの後ろ暗い話は一切語らず、自らの行為を
「お国のために、法律に従ってやったのだ」
とまるで美談のように後世に残しただけ。
そのため、私たちはわずか100年前の自国の出来事であるにもかかわらず、“共産党”や“特高”について、全くと言っていいほど正しい情報を知る術がありませんでした…。

しかし近年、その空白の歴史を埋める事実が、日本から遠く離れた場所で発見されました。

特高警察の内部資料、共産党の極秘文書、共産党員の獄中手記や供述調書など、特高警察の警部「矢野豊次郎」が、燃やさずに抱え込んでいた膨大な資料が発掘されました。
その数、紙の切れ端からレポートまで、およそ2万枚…。

特高の残虐性…。
大昔の話だろうと思われているかもしれませんが、日本はこの暗い歴史を埋めたままにして未来へ行こうとしている。
特高警察から拷問され、人生を台無しにされた被害者に対する謝罪は未だなされていない。
「戦争責任」
「戦後補償」
というと、中国や韓国への謝罪と賠償と考えがちだが、しかし、日本における「戦争責任」の追求は?
補償も充分にない。
そして、特高の餌食となった被害者たちの救済と名誉回復はいつ図られるのですか?
「治安維持法」で実刑を受けた者は、戦後に
「その刑は無かったものと見做す」
と通知され、戸籍に記されていた事項は抹消されました。
これが名誉回復にあたるのか。
一言の謝罪も無く、補償も無い。
しかも特高警察の犯罪は見過ごされたまま。
日本国民への謝罪はいつか?
政府は戦後75年以上も経過し、未だに
「日本が悪かった」
などと言っています。
もう良い悪いの次元ではありません。
裏も表も史実を見てモノを言うべきです。
このままでは私たちは、歴史を繰り返すかもしれません。
ですから史実は把握し、吟味し、歴史遺伝子の一部としなければなりません。
そして、戦争責任を巡り国民への謝罪がなされたとき、日本は真に偉大な国への第一歩を踏み出せるはずです。

権力を持った特高が「悪者」と決めた人を徹底的に弾圧する…。
そんな形で暴走していった特高の残虐な取り締まりは、
「戦前という大昔の特殊な出来事」
ではありません…。
実際、この構図は今でも変わらないと思い当たる節がありませんか?

現在の新型コロナウイルス対策における政府の対応。

徹底的な弾圧はまだありませんが、コロナ禍でいつの間にか「自粛要請」のはずが「罰則規定」まで議論されるようになっています。
外に出た人が悪い人なのでしょうか?

これはもしかすると、悪者の弾圧の萌芽でしょうか…。
こういうことが起きる最大の原因は、あの戦争で何故日本は敗北したのかを、日本人の手で徹底的に追及していないからなのかもしれません…。

歴史は、舞台や演じる人が変われど、シナリオだけは変わらない。
確かに
「歴史を絶対に繰り返す」
と言い切ることはできません…。
ですが、少なくとも、私たちは
「当時の日本で何が起きていたのか」
をほとんど知らない、ということは言えるのではないでしょうか。

そして、もしもシナリオが同じで、歴史が繰り返されることがあるとしたら、それは、歴史を忘れた民族の中で繰り返されるのかもしれません。

政府や特高が「悪者」と決めた人を徹底的に弾圧する…。
そんな権力の暴走を日本の遺伝子の一部として語り継ぎ活かすことも、あるいはこのまま歴史の闇に埋もれさせることも、すべては現代を生きる我々に託されているのではないでしょうか…?

真実を知ることは、時に痛みを伴います。
これほど陰惨な歴史は、見たくも聞きたくもないかもしれません。
ですが、目をそらさず、この真実に向き合うことで、特高の横暴を生んだ日本の歴史的な土壌や引き金となった「治安維持法」の問題点、現代に生きる私たちにできることなど、今に生きる教訓を得られることでしょう。
より良い未来を築くためにも、先人たちの苦しみを繰り返さないためにも、私たちの子供や孫など、次の世代に正しい歴史を伝えるためにも、真実と向き合うべき時が来ているのではないでしょうか?

〔編集後記〕

今年で終戦76年。
第二次世界大戦の悲劇の1つと言えば、ヒトラーが行ったホロコースト。

大量のユダヤ人が理不尽に虐殺されました。

実は、日本でもホロコーストまでとはいかずとも、理不尽に処罰され、しかも隠蔽までされていたこの事件。

例えば、
・絵を描いただけで逮捕
「話し合う人」という絵が“共産主義の話をしている”ように見えるとして禁錮2年になりました。

・“共産党員”の娘というだけで拷問
頬を何度も殴るだけでなく、背後から腕を捻じ上げ、後頭部を掴んで畳に額を擦り付けられ…。 
彼女は、事件から90年が経ち100歳を超えてもなお、爪切りすら恐れるほどの強烈なトラウマを持っているといいます…。

・小説を描いただけで虐殺
本編でも紹介した小林多喜二。
彼は、小説『蟹工船』の中で、天皇陛下を侮辱する行為があったという理由から拷問を受け殺害されました。

など、嘘のようですが全て本当の話です。

本来、「共産主義から日本を救う」という目的で作られたはずの組織でしたが、共産主義者の「疑い」があれば即逮捕という、治安維持法という法律をバックに好き放題な状態になっていました…。

彼らの被害にあったのは合計で6500名にも上るのに…。

一切処罰されることはなく、むしろ戦後出世していきました…。

しかし、こういった事件を学校の授業などで教わることはほとんどありません。

なぜなら、政府にとって不都合な真実だからです。

このようなことが、まだまだ日本の歴史の闇の中に多く埋まっているのが今の日本の現状なのです…。

今回はいつもより長めの記事になりましたが、最後までお読み頂きまして有り難うございました。

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