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2023.9.6 【全文無料(投げ銭記事)】植物には『知性』があるのか?

一昨年前の暮れに、1LDKの小さな住まいへ引越し、ベランダの一角で観賞用として球根から育てたリコリス(彼岸花)とスーパーで買ったパイナップルの茎と葉の部分を残して植木鉢で育てているわけですが、一度プランターの容器から出してしまったために、リコリスはストレスを感じたのか、昨秋はどの株も全く花を咲かすことがありませんでした。

人間や動物に感情や知性があるように、果たして植物にもあるのか?
と、疑問に感じたのをきっかけに、今回はリコリスが花を咲かすことに期待しつつ、著名な書籍を参考に『植物』をテーマにして書き綴っていこうと思います。

木々は栄養分を分かち合っている

“木々は根を通じて栄養分を交換したり、害虫の襲来を警告して、互いに助け合っている”
というのは、最近の科学で明らかになってきた植物の生態です。

これらを知ると、植物の見方が変わります。

ドイツの森林管理官ペーター・ヴォールレーベン著『樹木たちの知られざる生活』には、こんな驚くべき文面から始まっています。

数百年前に切り倒されたブナの切り株の樹皮の一部を剥がすと、その下に葉緑素の層が現れて、木がまだ“生きている”というのです。

だが、私が見つけた切り株は孤立していなかった。
近くにある樹木から根を通じて手助けを得ていたのだ。
木の根と根が直接つながったり、根の先が菌糸に包まれ、その菌糸が栄養の交換を手伝ったりすることがある。

ペーター・ヴォールレーベン著『樹木たちの知られざる生活』

切り株だけでなく、日当たりの良い場所に生えている木が、隣の日当たりの悪い場所に生えている木に栄養を補給することも行われています。

こうした助け合いは、異なる種類の間の木々にも見られます。

木々はなぜ助け合うのか?

木々は地中の栄養だけでなく、太陽の光も分かち合います。

通常、木は、隣にある同じ高さの木の枝先に触れるまでしか自分の枝を広げない。
隣の木の空気や光の領域を侵さないためだ。

ペーター・ヴォールレーベン著『樹木たちの知られざる生活』

たしかに、木々の枝がぶつかり合って、強い木が弱い木をねじ曲げているという光景は見たことがありません。

更に木々は害虫からの防衛でも助け合います。
毛虫に葉を食べられたヤナギの木は、ある揮発性の化学物質を出して周囲の木に警告します。

すると、周囲の木はフェノール系とタンニン系の化学物質を葉に送ります。
毛虫はこれらの化学物質が嫌いで、寄りつかなくなるのです。

ヴォールレーベンは木々が助け合う理由を以下のように説明しています。

では、樹木はなぜ、そんなふうに社会をつくるのだろう? 
どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? 
その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。
木が一本しかなければ森はできない。
森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない。
バランスのとれた環境もつくれない。

私たち人間が、家族や地域や国家で助け合って生活しているように、木々もまた共同体を作って、助け合い守りあって生活する智慧を持っているのです。

脳はなくとも知性はある

前節で『智慧』という言葉を使いましたが、イタリアのフィレンツェ大学農学部のステファノ・マンクーゾ教授は、
「植物は『知性』を持っている」
と主張しています。

「脳のない植物がどうして知性を?」
と、不思議に思う読者の方もいるでしょうが、
「目のない植物が太陽の方向に枝葉を伸ばす」
ということを考えれば、目は無くとも光を感じる能力はあります。

植物は動物とは全く異なる仕組みで、光や匂いなどを感じ取っています。

同様に、脳は無くとも、全く別の方法で自分の育った土地の中に適応して生存しているのです。

マングーソ教授が説明する次のような説明を読めば、
「食物が知性を持っている」
という主張も理解できます。

植物が生きていくためには水分、林、窒素など様々な養分が必要で、それらを根を通じて吸収しなければなりません。

酸素、ミネラル、水、養分は、地中のさまざまな場所にあるが、それぞれが遠く離れた場所に分散していることもある。
したがって、根は重要な決定をたえずくださなければならない。
右へ伸びて、リンにたどり着くべきか、それとも左に伸びて、いつも不足しがちの窒素を見つけるべきか? 
下に伸びて、水を探すべきか、それとも上に伸びて、きれいな空気で呼吸するべきか?
対立する要求をうまく調整し、行動を決定するにはどうすればいいのか?
さらに、根が伸びていく際には、たびたびぶつかる障害物を迂回しなくてはならず、敵(べつの植物や寄生虫)に出くわして「身をかわしたり」、防衛したりしなければならないこともある。
こうした選択は、序の口にすぎない。
一本の根にとっての必要性だけではなく、植物の個体全体にとって何が必要なのかということも考慮に入れなければならないからだ。
おまけに、一本の根の必要性と個体全体の必要性が食いちがうこともある。

ステファノ・マンクーゾ著『植物は<知性>をもっている』

根の先端には、1,2mm以下の『根端』があり、非常に小さな植物でも無数に別れた根の先に合計1500万以上もの根端を持っています。

それらが重力、温度、湿度、磁場、光、圧力、化学物質、有毒物質(重金属など)、音の振動、酸素や二酸化炭素の有無を計測しています。

例えば、湿度は、少し先に水がある方向を感知して、そちらの方向に根を伸ばしていきます。

また、別の根っこは、その植物全体ではリンが足りないと判断すると、リンが得られる別の方向に伸びていきます。

こうして分かれた根のそれぞれが植物全体の必要性を知り、必要な栄養分の得られそうな方向を感知して独自に伸びていくのです。

人間の中にも、好き嫌いで栄養が偏って太りすぎたり、病気になる人がいることを考えたら、植物の方が高い知性を持って環境に適応しているとも言えそうです。

数千年前から人類の文化に巣食っている先入観や思い込み

マンクーゾ教授の本を読んでいて感じるのは、
「植物に知性がある」
という学説を、むきになって何度も論じていることです。

<はじめに>の冒頭から、こんな書き出しです。

本書の第1章では、植物に知性があることを否定する根拠は、科学的なデータなどではなく、じつは数千年まえから人類の文化に巣食っている先入観や思いこみにすぎないことを明らかにする。
この状況は現代でも変わっていない。

ステファノ・マンクーゾ著『植物は<知性>をもっている』

<数千年まえから人類の文化に巣食っている先入観>の一つとして、教授は旧約聖書の記述を挙げています。

ノアの洪水の物語では、ゴッド(日本の神と区別するために、キリスト教の神をこう呼びます)が、ノアに“全ての生き物”をつがいで箱船に乗せるよう命じます。

では、植物は?
植物については言及されていない。
『旧約聖書』では、植物の世界は動物の世界と同等とはみなされていない。
それどころか、まったく考慮に入れられていない。
・・・
聖書のなかでは植物についての記述はあまりに乏しく、なんの心配もされていないようだ。

ステファノ・マンクーゾ著『植物は<知性>をもっている』

創世記では、ゴッドは1日目に昼夜を分け、2日目に天と海とを分け、3日目に陸と海を分けて、陸を草木で覆いました。

4日目には太陽と月と星を作り、5日目にして漸く魚や鳥や動物を作ります。

そして6日目に人間を作り、
「海の魚と、空の鳥と、地に動く全ての生き物とを治めよ」
と命じます。

こうして人間は、<全ての生き物>を治める立場に置かれますが、どうも草木は“生き物”の仲間ではなく、3日目に作った陸の一部のように描かれています。

こういう自然観から、植物は生物の一部ではなく、山や川と同じような“環境”に過ぎないと考えているようなのです。

こういう自然観を数千年に亘って叩き込まれた西洋人から見れば、植物に知性があるという新説に、学界でも大きな抵抗があったのは不思議ではありません。

これが、マングーソ教授の言う
<数千年まえから人類の文化に巣食っている先入観や思いこみ>
であり、教授は、これと必死で戦っているのです。

人間も草木も『神の分け命』という日本の自然観

しかし、教授が日本文化の自然観を知っていたら、そんなに意固地にならなくても良かったことでしょう。

いや、日本文化に限らず、太古の人類が信じていた精霊信仰でも構いません。

そこでは、草木に限らず山にも川にも、『神の分け命』が宿っていると信じられていました。

その信仰を最も早く文字で記録したのが古事記と日本書紀ですが、日本画家であり、日本神話に関して数々の著書を遺された出雲井いずもいあき氏は、次のように言葉を残されています。

古代人は、ものをただの物体とは見なかった。
そして、すべてを神のいのちの表れ、神の恵みとみた。
すべてのものに神の命を見たからこそ、ありとあらゆるものに神の名をつけた。
例えば、小さな砂粒にさえ石巣比売神いわすひめのかみ、木は久久能智神くくのちのかみ、山の神は大山津見神おおやまつみのかみというように・・・

出雲井晶著『今なぜ日本神話なのか』

現代の私たちも樹齢数百年の巨木を見れば、何か厳かな感じを抱きます。

注連縄しめなわを巻いて、神様のようにお祀りします。

この自然観は、奈良の大仏を造られた聖武天皇の大仏造立のみことのりにも現れています。

誠に三宝の威霊に頼り、乾坤けんこん相泰あいやすらかに万代の福業を修めて動植ことごとく栄えんことを欲す。

現代語訳:三宝(仏・法・僧)の力により、天下が安泰になり、動物、植物など命あるもの全てが栄えることを望む。

すなわち、奈良の大仏は人間だけでなく、動物植物がことごとく栄えることを願われて造立されたのです。

最澄から生まれた『天台本覚論』では、
山川草木悉皆成仏さんせんそうもくしっかいじょうぶつ
と唱えて、山も川も草木も成仏すると考えました。

比叡山山頂の荘厳な巨木に囲まれた延暦寺を訪れると、この自然観もごく当然と受け止めることができます。

日本仏教は、こうして神道の自然観の上に移植されたのです。
それによって縄文以来の日本人の自然観は、そのまま現代までの私たちの心の中に生き続けています。

植物も人間と同じ『神の分け命』だという私たちの自然観の下では、マンクーゾ教授の
<植物には知性がある>
という考え方も、それほど奇矯には見えないのです。

千年の木の命を、また建物として千年以上も生かす

法隆寺は1300年前に建てられた現存する世界最古の木造建築です。

代々法隆寺に仕えた宮大工の西岡常一氏が、古代の日本人が、どのような心持ちで木に接していたかを語っています。

わたしたちはお堂やお宮を建てるとき、「祝詞のりと」を天地の神々に申し上げます。
その中で、
「土に生え育った樹々のいのちをいただいて、ここに運んでまいりました。これからは、この樹々たちの新しいいのちが、この建物に芽生え育って、これまで以上に生き続けることを祈りあげます」
という意味のことを、神々に申し上げるのが、わたしたちのならわしです。

西岡常一『木のいのち木のこころ・天』

法隆寺の主要な所は、全て樹齢1000年以上のヒノキが使われています。
そして第二の命は1300年経っても生きているのです。

建物の柱など、表面は長い間の風化によって灰色になり、いくらか朽ちて腐蝕したように見えますが、その表面をカンナで二、三ミリも削ってみると、驚くではありませんか、まだヒノキ特有の芳香がただよってきます。
そうして薄く剥いだヒノキの肌色は、吉野のヒノキに似て赤味をおびた褐色です。
千三百年前に第二の生き場所を得た法隆寺のヒノキは、人間なら壮年の働き盛りの姿で生きているのです。

西岡常一『木のいのち木のこころ・天』

このように、千年の木の命を、また建物として1000年以上も生かすのが、日本の宮大工の仕事でした。

国土の恩も先人の知恵も忘れて

日本の森林率(国土面積に占める森林面積の割合)は68.5%と、フィンランドについで世界第2位です。
その森林大国の木材自給率は僅か35.8%です。

そのため、ロシア、カナダ、アメリカといった森林率が遥かに低い国々から木材を輸入しています。

昨今は、コロナやウクライナ戦争の影響で、木材の輸入価格が2倍程度も急上昇し、ウッドショックと騒がれています。

国土の3分の2を占める森林は、放置され荒廃が続いています。

天然林なら、木々は本来の生命力で人手が入らなくとも健康な状態を維持できますが、杉の木ばかり植えた人工林では、定期的に枝刈りをしないと日が十分差し込まず、荒廃してしまいます。

虐待された木々たちの苦しみの声が聞こえてきそうです。

私たちの先人たちが持っていた豊かな自然観を忘れ、樹木を単なる“用材”として、安ければいくらでも海外から輸入すれば良いという西洋的自然観に走った結果です。

数万年もの間、私たちの先人たちは、この美しく豊かな森林に覆われた日本列島で、木々のお陰を頂いて生かされてきました。

その国土の恩も、先人の知恵も忘れて、現代の我々が森林を虐待しているのは、誠に申し訳ないことではないでしょうか。

最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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