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2022.6.10 日本から仏像が消えかけた事件

126代の天皇を抱く日本は、 文化が基本の社会です。
日本の文化を知ることで、 日本人というものが分かります。

今回は、私たちが知るべき日本の文化とは何なのか?について少し書いていこうと思います。


これは、群馬県の山奥にひっそりと安置されている仏像です。

写真を一目見て、違和感を覚えたかもしれません。

見ての通り、この写真内の仏像全てが、首から上を破壊されています。

石でできた仏像が同じように破壊されているので、経年劣化ではありません…。

つまり、人の手によって破壊されたのです。

これはどういうことなのか?

仏像が無惨に破壊された背景には、実は明治維新後に起きた、ある運動が大きく影響しています。

運動の名は『廃仏毀釈はいぶつきしゃく』。

「日本の宗教は神道だ」
とし、仏像やお寺を破壊。
仏教を無くそうとする運動でした。

「坊主にくけりゃ袈裟まで憎し」
「坊主丸儲け」
「地獄の沙汰も金次第」

こういった言葉ができたほど、江戸時代末期の仏教僧は堕落していました。

冠婚葬祭の全てで、お寺の世話になる必要があり、その都度、仏教僧はお布施を強要。

その様子は暴利の限りで、庶民にとって仏教は、もはや信仰の対象ではなく、恨みの対象となっていました。

そんな矢先、明治新政府は、天皇を中心とした国を確立するべく、『神仏分離令』を発布します。

政府の目的はあくまでも、神道と仏教の分離であり、仏教の排除までは考えていませんでした。

しかし、政府の狙いとは裏腹に、
「仏教を日本から無くそう!」
という動きが庶民の間で高まることになります。

結果、仏教に関するものをどんどん破壊していきました。

その被害は甚大で、例えば創建1000年以上の歴史を持つ奈良県の興福寺では、2000体以上に上る仏像や美術品が盗難・破壊され、五重塔はたった25円で売却されてしまいました。
幸運だったことは、破壊までされなかったことです。

日本4大寺の1つとされ、敷地面積が東大寺よりも大きかった姿は、今は見る影もありません。

廃仏毀釈の一連の流れは、明治9年頃に終わりを迎えますが、その頃には寺や仏像美術は、まさに“ボロボロ”の状態でした。

聖徳太子が神仏習合を果たしてから、1500年以上にわたる歴史や仏像美術は、日本から消えようとしていたのです。

しかし、この荒廃を食い止め、仏像や美術品を今に残す大きな役割を果たした一人の男が居ました。

岡倉天心です。

岡倉天心は明治維新が起きる、まさに1年前に生まれます。

幼少期より勉学に励み、東京大学を卒業後、専修大学の教員として勤めます。

古社寺の歴訪を命じられたことから、日本美術を調査します。

そんな最中、奈良を訪れた際、廃仏毀釈後、放置されたままのお寺や仏像の居た堪れない姿を見て疑問を覚えます。

「自国の『美』を誇りに思わなければ真の近代化はない」

岡倉天心はこの想いで、美術作品の収集や保全に一生をかけて取り組むようになりました。

日本の美術作品を守るために『文化財保護法』を制定させ、国を巻き込んだ制度を作ります。

個人でも美術作品の収集に励み、結果、20万点以上の美術作品を破壊や海外への流出から守りました。

また、現在の東京藝術大学となる東京美術学校の初代校長も務め、日本美術の繁栄にも貢献します。

岡倉天心の活躍なくして、今の法隆寺や興福寺はなかったと言っても過言ではないのです。

生涯をかけて、日本の美術作品の収集や保全をした岡倉天心。

そんな天心が一生をかけたおかげで、日本の美術作品が今日にも受け継がれているのです。

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