見出し画像

もらいもの下手。

贈り物のセンスがある人は素敵だ。
もらう人の好みやニーズにちょうど合うものを、絶妙なタイミングで、さらりとプレゼントするのは実はとても難しい。だから、贈り物が上手な人って案外なかなかいない。私の周りにはごく少数そういう友人がいて、そのセンスをいつもうらやましく思っている。
 
もらった物で「本当に良い」と思えるのはどれくらいあるだろう。
私は物をもらうのが苦手だ。趣味に合わない物は置き場に困るし、使わない物は本当に使わない。そうして物がたまっていく状態が好きでない。
ところが人は、特に韓国(に限ったことではないかもしれないけど)では、やたらと物をくれる。特に年配の方々が。
気前の良さや面倒見の良さ、助け合いの気持ちなのだろうが、要らない物処分の要素もけっこうある。もらっといて損はない、というのが基本であって、もらったら困るという相手の状況はあまり考慮されない。そもそもそういう人がいるとは思っていないようだ。
 
いまだに衝撃とともに覚えているのは、結婚当時、知りあいのおばさまにもらったハート型のランプだ。でこぼこした表面でぷりっと丸みのあるハート型のランプは、灯すと赤い妖艶な光を放った。「新婚のベッドルームにぴったりでしょ~」と言われてもらったが、これを本当に好んで使う人が一体どれくらいいるのか謎だった。しかも、わざわざ選んで買ってくれたわけではなく、おばさまの経営しているショップで扱っている物の在庫だったようだ。なぜこういうものをくれるのか、私は純粋に理解できない。
 
個別のプレゼントはもとより、記念品や景品もけっこう困る。消耗品ならいくらあっても困らないでしょ、という前提で渡される、箱ティッシュや洗剤、ハンドソープやボディソープの類も、うちでは一切あるいはごくちょっぴりしか使わない。
消耗しない物のうちもらって困る物ナンバーワンは、エコバッグだ。なんだかんだでこの数年間もらい続けたエコバッグが、段ボール箱一杯分ある。ノーモア・エコバッグ。
 
食べ物のおすそ分けも手ごわい。
実母や義母の住まいが遠く離れているので、通常いちばん多いとされる母親からの食べ物アタックはない方だけど、私がみるに身近な年上の女性たちはじつにふんだんに食べ物をくれるものだ。

よく通っている地元密着型のフェイシャルエステの院長さんは、エステティシャンというより近所のアジュンマ友達な関係になってきていて、いろいろと物をくださる。手作りのおかずから、自分が好きでよく買って食べるというヌルンジ(玄米おこげ)まで。「おうちで旦那さんと一緒に食べて」といってくれるのだが、同居人は食べ慣れないものはほぼ口にしないタイプなので、結局私が一人でせっせと食べることになる。美味しいし、ありがたいのだけど、困る。夫はあまり食べないので…と断ると、じゃああなたが食べなさいよ、これくらいほんのひと口よ!といって、なんだかんだと小さな一包みは結局持たされる。
 
やんわり遠慮するのは通じず、きっぱり断るにも、関係性上ことばを選ばざるを得ない。冷蔵庫を占めるほどのものじゃないから、気にせずありがたくもらっておけばいいのだが、なぜ私はこんなことをいちいち負担に思ってしまうんだろう。
 
そんなわけだから、せっかくのおすそ分けもなかなか素直に喜べない私は、当然、人になにか物を贈るのもとても苦手だ。
「私だったらこれをもらったら嬉しいけど、相手は嬉しくないかも」「食べ物だったら構わないだろう、でも好きなものじゃなかったら困るよな」…とさんざん迷った挙句、イマイチな物で妥協することが多い。
昔は「プレゼントとして現金を渡すなんてナンセンス」と思っていたが、最近はいきつくところ現金が一番無難だというのもうなずけるようになった。
 
よく、プレゼントは物そのものよりも、自分を思って選んでくれたその時間がありがたい、ということばを聞く。それは本当に同感で、だからこそ好きな人を思って選ぶ時間は楽しい。人が私のために選んでくれた物をもらうことも、素直に嬉しい。ただ、私の元にとどまるその物がその分の価値を発揮するとは限らない。

贈り上手がいれば、もらい下手もいるもんだとつくづく思う。