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「〇〇しなければならない」という罠

先日参加した開闢という"とことん自分を知る"
講座でのテーマ
「明日がどんな一日になるか想像してみる」
をやってみて、ある一日が私にとってどんな一日になるか想像してみた。

…が、む、難しい

というか、
そもそも"どんな一日になるか?"と想像するよりも、"どんな一日にするか?"と、することを中心に想像を始めるから、することばかり想像しちゃう。

そうじゃないんだよーと講座に参加したメンバーと話しをシェアしながら、
私は自分が感じた気持ちを想像することをきっかけに、ある一日を具体的に想像してみた。

想像したある一日の朝になったとき、
「わぁ、想像した一日が始まるんだ」
と今まで感じたことのないワクワクと、
既に想像で実感した一日を今度は身体で体感し実感するんだという何とも不思議な気持ちになった

これが、
「想像した日を二度、実感する」
ということか…と腑に落ちた瞬間だった。
すごく落ち着いて安心感や充足感を感じながら過ごした一日だった

すごく心地が良かったから、
またある一日を想像し思い描いていこうと思って
実践していたのだけど、いつの間にか
「一日を想像して思い描くべきだ・思い描かないといけない」
としていた私。
苦しくなっていた

「私の人生を豊かに幸せになる選択をしたのに。
へんなの」
と思い、一旦やめてみた。
そのかわり、
一日を想像して思い描く
サポートがくるように祈ってみた

そうしたら、サポートがやってきて
また、一日を想像して思い描くことが面白くなった

「〇〇しなければならない」は、
私を苦しく、窮屈に、視野を狭めさせる

私の視野が広がり、安らぎ、心地良くなることを
私が私に与えよ

⚫︎今回知った私の部族的信念
何かすることをこなすことが幸せにつながる

⚫︎今回、得たもの
自分のエゴが選択する思考

⚫︎今回、得られなかったもの
今はわからない

⚫︎どんな一日になるだろう?
視野が広がる日

⚫︎私はどうしたいのか?どうありたいのか?
「〇〇しなければならない」と選択肢を狭めるほうではなく、広げるほうをやっていく

⚫︎チャクラのこと
第五チャクラを意識中

〜私の「部族的信念」の定義〜
子どものときに、家族、教師、宗教的しつけなどによって植え付けられる無意識の前提