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はじめてみます、noteってやつを

 この先、ここに綴られていくだろう言葉の束の数々は、日本という国にて生活を営むとある成人の戯言であるということ。私的感情という非常に客観性から遠い位置にあるもので形成されるだろうということ。少ないボキャブラリーの中から無理矢理に組み立てられた、ちょっとしたことですぐに崩れてしまう基礎工事のなっていない建物のようなものになるということ。つまり、それは稚拙な文章で生み出されていくということ。それだけはすでにわかっている。それを踏まえたうえで捉えていただくと、連ねられていく言葉たちがどういうものなのかを理解しやすいかもしれない。

 そう、これは序文という形を借りた言い訳というものだ。

 言い訳から始まるということは、言葉に予防線を張っているということであり、それは守りに入っていると解釈するものもいるだろう。そりゃ、そうだ。もっともらしい言葉で宣誓しておきながら、吠えながら後ずさりする犬のようではないか。ごもっとも。負け犬の遠吠え。弱い犬ほどよく吠える。これはそういう類のものだ。しかし、なぜ負けや弱いという表現に犬は使われるのだろう。吠えて噛みつく。そういうことか? 弱者というものは一般的にそのように見られているからか? でも、犬以外だって噛みつくじゃないか!

 話は逸れてしまったが、ここに書き連ねられるだろうものは簡単に言えば感想文や日記の類だ。子供の頃に宿題とかで書かされた“あれ”である。いい歳をした大人がなぜそのようなものを始めようとしたのか。そんなことはこれを書いている今もわからない。ただ、なんとなく。そんな気分だったからとしか言えない。どのようなペースで進めていくのか。どれくらいの量にするべきなのか。まったくもってノープランである。

 そんなわけで最初の記事(という名称になる個人の戯言)はどのようなものになるのか。後日、溜息と深呼吸をうまくブレンドしながら確認してみてほしい。

 “あの頃はこうだった”としたり顔で話をする羞恥心を知らない大人や、“ああ、それはこういうことなんだよ”と蘊蓄を垂れ流すやっかいな大人だったり。見てもいられない、恥ずかしい大人の見本市が繰り広げられていくかもしれない。
 “お前は何もわかってない!” “いい加減なことばかり並べてるんじゃねえ!” そんな言葉が四方八方から剛速球で投げつけられることも想像できる。百も承知だ。
 
 すべてを受け入れてこそ、成り立っていくものだ。世の中に何かを放つということはそういうものだ。いちいち反論することほどくだらないものはない。目くじら立てて、血管浮き上がらせて早口で理論武装するようなことも、未就学児のように泣き叫ぶ姿だけをさらすことも避けていきたい。まあ、そんな姿をさらけ出すのもそれはそれで面白かったりするのだが。

 そう、これは地獄という名にも値する物語の予告編。これから繰り広げられていく世界はホラーだ。人間の奥底に眠る闇を引きずり出す、恐ろしい世界の扉が開くわけです。みなさん、準備はよろしいですか?


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