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うる星やつら2 ビューティフル・アンチテーゼ 高橋留美子vs押井守の攻防

ご存知の通り、「うる星やつら」は高橋留美子が1978~1987年にかけて週刊少年サンデーで連載していた漫画で、本作は1984年に公開された劇場版アニメの2作目です。

「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」 
エンディングテーマ・愛はブーメラン


劇場版の第一作目「うる星やつらオンリーユー」につづき押井守が監督をした作品です。

この作品は、その後の押井守作品の原点となるものであり、明らかに出世作となりました。

結構当時からこの作品については、大きく賛否が分かれ、中でも原作者である高橋留美子氏から否定的な評価が下されたことは、広く知られています。

それは、面白くないから否定的ではなく、明らかに高橋留美子が築き上げた原作の世界観や、また、原作に対するアンチテーゼでもある作品と見られるからです。

映画版のうる星やつらとして、この作品を超えるものはなく、そして、うる星やつらの映画でも無いという解釈ができる映画です。

だからこの作品は、押井守が押し込んだうる星やつらの思想がかなり入った、脚本も面白い作品で、うる星やつらの映画の中では、今でもダントツに人気があります。

うる星やつらの映画と言えば「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー」と言うぐらいの傑作かと思っています。今上映しても、内容的に古くもなく面白いと思います。

しかし、上記に書いたその押井守の製作思想が優秀であり、原作者高橋留美子が築き上げた世界観も優秀ゆえに、そこで大きくバッティングもあり、場合によっては原作の方向性も変えなければならないのではないかとおもわせるぐらいのインパクトがありました。

うる星やつらの原作を知っている人はご存知かと思いますが、アニメのように最初からヒロインはラムではありませんでした。うる星やつら原作では、最初はしのぶがヒロインで始まる漫画です。しかし、押井守氏が頂点に立つアニメ版は最初からラムがヒロインでした。

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原作漫画にて作品の意図的にヒロインがしのぶからラムに変わっていくのですが、アニメは意図的に最初からラムを前面に持っていくことで人気を保たせる方針があったそうです。
その世界観の人間関係の中で毎週ドタバタラブコメディを描いていくという、アニメ版うる星やつらを知っている人であれば、ヒロインはラムのドタバタラブコメディというイメージしか無いと思います。。

その方針において、アニメ版制作側最高責任者の押井守氏のそのストーリーの進展があまりにも無いアニメこの「アニメうる星やつら」に終止符を打つ脚本を描いた、としか思えない作品となっています。

ネタバレ内容は書きませんが、押井守氏の才能もあり確かに面白いです。
しかし、最後はあたかもシャボン玉のように、今までの見てきたうる星やつらの世界は「夢の世界」の話であり、この映画の最後のシーンで全員が目を覚ましたというような表現しています。

学園祭前日をひたすら繰り返す本作は、いわゆる典型的な「ループもの」で、後の様々なアニメ作品にも影響を及ぼしました。

この「ループ」という構造自体は、例えれば、「サザエさん方式」というもので、毎年4月になっても学年は上がらず季節が巡る(例えば小学3年のクリスマスが毎年何度も描かれたりする)タイプの漫画です。

だから、サザエさんの家には毎年12月に唐草模様の風呂敷を担いだ泥棒が入ることができるわけです。
ドラえもんも同じく連載漫画や放送期間の長いアニメでは、昔からわりとよくあるタイプです。これしか方法が無いという理由もあります。

うる星やつらのこの2作目劇場版作品も「同じ学年を繰り返しているはずだが、作品世界のキャラクターは違和感を持たない」という前提がある「ループ構造」90分の中でもたせています。

ただ異なるのは、この「ビューティフル・ドリーマー」のループにおける自覚が、原作漫画とまったく異なる構造です。

それは、この作品の脚本が持つ押井守氏の「自己言及」だと思われます。

よく観ると自己言及的なものだけに留っていない、という点が、アニメコアスタッフや高橋留美子氏に対するメッセージ性があると僕は思っています。

例えばですが、作品の中で友引高校の「文化祭前日」のあのゴチャゴチャしている表現です。今も昔も変わらない「アニメ制作の現場」に見えてならない。

つまり、この作品には、自己言及的な無数の比喩があちらこちらに散りばめられているというという、押井守氏の無言のメッセージが隠され、それは押井守氏がうる星やつら製作に対する溜まっていた現実と作品との関係的表現の比喩が存在が見えると思っています。

本作では、ストーリーにおいても「現実の世界」と「夢の世界」の対比構造が重要な役割をしめています。
それは「原作漫画」と「アニメ」の対比構造に当てはめたことによる、そこに気づいた高橋留美子氏が大きな異論持ち始めたのではないかと個人的に思っています。

この作品は「現実と夢を区別することはできるのか、それはさめなければ分からないのではないか」という意味そのものに繋がります。

それは「原作」と「アニメ」で描かれるそれぞれの世界の持つ価値を分け隔てるものなど必要があるのかということ問いに繋がります。

高橋留美子氏原作漫画の世界観と、それを二次創作的に描いた押井守監督アニメ作品における世界観に、そもそも上下関係が存在するのか、という投げかけを押井守氏が高橋留美子氏に投げかけた、と認識しています。

映画ラスト付近のDNA背景のシーンで夢邪鬼とあたるが会話するシーンがあります。

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そのシーンで、夢邪鬼が言う「夢」と「現実」を、「アニメ」と「漫画」に置き換えてセリフを読むと、夢邪鬼=押井氏、あたる=原作者とそのまま解釈ができる、それはあたかもアニメ監督が原作者を説教している感じです。
これにはアニメには口を出さない主義である原作者高橋留美子氏もムッと来るでしょう。

そしてここで、高橋留美子と押井守の衝突が発生したと考えられます。

原作者は原作をリスペクトするのが当然と考え、映画監督は「両者は区別不可能であり、その理由により一方が優れているとはみなすことなどできない」とする押井の対立かと思います。

これができるからこそ「押井ワールド」であり、今もなおコアなファンを生む源泉だと思います。

これができるからこそ、今、アニメ業界に押井守氏の影響力はほとんど無くなってしまった、天才的才能を持ちながら。

うる星やつらの世界観全体を見た時に、「押井ワールド」の理論にて、高橋留美子の「うる星やつらの世界観」を解釈させていくのかが難しくなると思います。

それは、これをやられるとそれからも続くであろう原作の世界観や、TVシリーズ、映画等、うる星やつらにでてくるキャラクターがどのように動かしていくのかという点に置いても、原作者の高橋留美子自身に心理的縛りがでてくると思います。

そして、この作品を最後に、TVも映画もアニメ版は押井守監督からやまざきかずお氏に代わりました。

この作品は、今までのうる星やつらの世界は、「夢」だったと映画の最後でしめています。

そうでなければ、この作品の世界観を完結できないからです。それがやりたくて押井守氏は夢がさめた所で映画を終わりにした、と思っています。

押井守氏は長年のTVアニメ、映画製作に関わり、自ら「うる星やつら」を自ら必死で解釈をしようとした結果、それは破綻に近い矛盾が表面化しこの「ビューティフル・ドリーマー」が生まれたに違いないと思っています。

象徴的なシーンで映画ラストでの教室で目覚めたラムとあたるの会話があります。

「ラム、それは夢だよ。それは夢だ。」

そして、それは「夢」だと言い切っている。この解釈の源泉にあるものはすべてこの一つの発言で集約できます。

高橋留美子氏は絶対に許せなかったことは、うる星やつらの世界は「夢の世界だ」といい切らせたこと。

実際、「ビューティフル・ドリーマー」という作品は、「うる星やつら」の構造を丸ごと再現し、頭の中にある対立構造を終わらせたと思えます。

すなわち、終わることなく続く、「夢の世界」。

「サザエさん方式」とは、終わらせないためにとられるある種の裏ワザですが、夢だとループから抜け出せない。

最後は夢からさめたうる星やつらに戻って、この映画は終わり、最後は日常のうる星やつらの日常、いわゆるループに戻しました。

ループです。終わることなく続く「夢の世界」。

そして、この作品を最後に監督を辞め、押井守は「フリー」となったわけです。


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