調子は良い・・・はずが


西洋医療以外の方法で治療することを決めて、手に入るあらゆる方法やアイテム・食品を身体に聴きながら取り入れつつ、身体の調整を施療家さんにしていただいていたのですが、がん宣告されて、2か月ほど過ぎ、仕事もひと段落したところで、どうやら、私の状態があまりよくないことを告げられました。
このままだと、幹細胞はそのまま残ってしまい、転移のリスクが高くなっているということでした。

この時は告げられなかったのですが、実は、ステージが2から3まで上がるくらい悪化し、甲状腺への転移も進んでいたようだったんです。

私の希望をかなえるべく施療はしていただいていたのですが、このままだと命の保証ができないということで、病院の受診を進められました。

これは、本当にショックでした。
でも、実は、このことが、一番気づかなければいけないことを気づくための、がんからの私へのギフトの始まりだったのです。

この時、施療家さんにこう告げていた私がいました。

「もう、これ以上生き続ける選択をしたくないです。
 もう、こんな窮屈な場所で生きることを続けたくない。
 早くこの人生から卒業したいのが本音です」と。

そう、この時、はっきり口に出したこれが、私の本音だったんです。
だからがんを作ったのです。

がんができたことで、生き続けなくていい大義名分が私にはできたと、心のどこかで喜んでさえいたかもしれません。
そう、私は、復讐したかったのかもしれません。

母親に、家族に、そして、私自身に。

「私がいることは当たり前じゃない」ずっとずっと周りに言っていた言葉。
それでも、何も変わらなかったから、変えるためにがんを作ったんです。
がんほどのものが目の前に現れてくれたら、明らかに大義名分になるから。

だからがんを私は作ったんだ・・・

それを本当に実感しました。
そして、もう、これで生き続けなくていいという安堵ともいえるような思いがあったのですが、施療を受けている最中に、それをはるかに上回る声をものすごい勢いの声が身体の奥の奥から聞こえてしまったのです。

「生きろ!生きろ!生きろ!!!!」って。

未だかつてないその大きなエネルギーの塊のような熱量の声が、身体の奥底から私の身体中と私の脳に向かって大音量で叫び続けてきました。

堰を切ったように溢れて流れてくる涙を私は止めることができず、嗚咽を上げて泣いていました。
こんなことは生まれて初めてでした。

「生き続けたくない私」と「生き続けたい私」

この二つの私のはざまで、ただただうろたえている私。

ここまで究極の選択をさせられることが起こるとは思ってもいませんでした。
でも、こうまでしないと、私は「本当のわたし」に気づけない、そう私の魂は思ったのかもしれません。
そして、ここまで追い込むことをしなければ、「本当に変わる」ことができないと私の魂はプログラムしていたのかもしれません。

この後、数日間、「生き続けたくない私」と「生き続けたい私」と「その間にいる私」、この3人の私と膝を突き合わせて、とことん話をする時間を持つことにしました。

#乳がん #究極の選択#生きるということ

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