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スワミジカレンダー 13【イーシュワラ⑤】

全ての形は、形のないイーシュワラから現れていて、
イーシュワラから離れた別の物ではありません。
しかし、イーシュワラは形を持ちません。

どの形も原子に戻すことができます。
そして原子は素粒子に戻すことができます。
素粒子までさかのぼるとすでに形がありません。
ですから実際には、どの形にも形がないのです。
ここには信じる話題が含まれません。
リアリティが話題なのです。
世界は、イーシュワラから離れた別のものではありません。
イーシュワラは、「世界が無くとも」あります。
シャツと布のようなものです。
シャツは布から離れた別のものではありません。
布は、「シャツが無くとも」あります。
BはAですが、AはBではありません。
これが、この宇宙の作者と材料が1つの同じものであると私たちが言うことです。
あなたの考え方や態度もまたこの理解を保ちながらあるなら客観的な見方です。
神、つまり、イーシュワラを視野の外においてはいけません。
神は信じる話題ではありません。
理解する話題なのです。


ミッテャーとサッテャム

土でできたポットがあります。
私たちは、見たり触ったりして「ポットがある」と認識しています。
ですが、ポットは本当に「ある」と言えるでしょうか。
土に触らずにポットに触ることはできますか?
あるいは、ポットの重さが500グラムだったとして、それはポットの重さと言えるでしょうか?
それは土の重さではないでしょうか。
土の重さが500グラムだとしたら、ポットの重さは何グラムでしょうか?

このように、「ポット」という物をよく見ると、土から離れて自立した重さも場所もなく、本当に「ある」と言えるのは「土」であるようです。
つまり、ポットというのは、「ポットらしさを装った土」であるようです。
それでは、ポットは「ない」のでしょうか?
ポットは土に存在を頼ってはいますが、確かに私たちは「ポット」という言葉でコミュニケーションを取ることができますし、それを使って水を汲むことができますので、「ない」とは言えません。

このように、何かに存在を頼っており、「ある」とも「ない」とも言えないものを、「ミッテャー」と言います。
それに対して、何にも頼らずに自立して存在しているもの、ポットと土の例で言えば土は「サッテャム」と言います。

土はポットに対してはサッテャムですが、より本当にあるものを見れば、原子があることを科学は明かしています。
土は原子からできており、土を装った原子が土ですので、土もミッテャーです。
そして原子も素粒子に頼って「まるで」存在しており、素粒子も本当にあるのは「空間」であることを、最先端の科学は明かしています。

本当にあるものを見ていけば、現れた世界は全て「空間」に頼って存在しています。
そしてヴェーダは、空間でさえ全ての質の源である「マーヤー」に頼って存在するミッテャーであると言います。
そしてさらに、質の源・マーヤーは、存在の源であるブラフマンに頼って存在するミッテャーであると言います。
ブラフマンこそが、唯一何にも頼ることなく自立して存在するサッテャム「存在」であり、それはまた「意識」だと言われます。
ブラフマンはあらゆる質から自由な、空間や時間にも制限されない存在です。
ブラフマンが、質の源であるマーヤーを伴って、空間・時間に始まる世界が現れています。
そのように、自らのマーヤーによって世界としてまるで現れる時、ブラフマンはマーヤー・ブラフマン、イーシュワラと呼ばれます。

ポットとして現れていなくても土は「ある」ように、世界が現れていなくてもマーヤー・ブラフマン、イーシュワラはあります。
ポットは土ですが、土はポットではありません。
同じように、現れた世界全体はイーシュワラですが、イーシュワラは現れた世界がなくてもあります。
ポットの真実はポットを装った土であるように、世界の真実は世界を装って現れたイーシュワラ、マーヤー・ブラフマンです。

これが、「この宇宙の作者と材料が1つの同じものである」という意味です。
ヴェーダの教える神、つまり、イーシュワラは、「そのような存在がいる」と信じる話題ではなく、世界の構造的なリアリティとして理解される話題です。

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