自分にとって、「書く」とは


#とは

自分にとって「書く」とは、呼吸するにも近い。それも、必死に走っている時の、絞り出して、貪るように吸って、また絞り出すみたいな呼吸。苦しいけど、しないと死んでしまう。そんな感じ。

いつも本屋さんや図書館に行くと。自分が好きな「書く」という行為が、いかに世の中に溢れているのかを、思い知らされる。本や情報が手軽に手に入る日本は恵まれていると思う反面、書くこと自体は特別なことでは無くなって。

自分の考えていることや、感じたことは、もっと上手い言い方が既にされていて。自分が発信することで、何か得することが世の中の誰かにとってあるのか、と思った。それでも、「呼吸」は止められないけど。

人とは違う、個性があることが、面白いことが言えることが、認められる「キャラクター」なのかな。でも、「違い」って、本当は、世の中にプラスかマイナスかなんて基準に関係なく、その人その人の中にあるモノな筈。

僕は、学校のクラス、友達の中、大学における学科の中でも、「浮いた存在」として認識されていた。自分が「浮いている」ことは認識していたけど、それを自分で認識しているのが、なんか「自分は特別な人間なんだ」って思い込みが激しいみたいで、いやだった。

人の話を落ち着いて聞くのが苦手で、集中力も散漫。「やらなきゃ」ってわかっていることも、「きちんとしなきゃ」って思っていることも、上手くできない。

ADHDかなって、ふと心理学の勉強をしていた時に思って、母親にちらっと相談したら、怒られた。「そんなことはあり得ない」って。母は社会福祉の資格を幾つも持つエキスパートだから、僕の思い上がりだとその時は思った。

小学生の頃から、調べ学習が好きだった。いつもグループのみんなに、調べてまとめをする役割を全部押し付けられていた。でも、念入りに調査をすると、先生や友人の中に褒めてくれる人がいたから、僕は進んで引き受けた。中学生の修学旅行で学んだことについての発表会では、水族館で見たクラゲの生態について画用紙一枚にまとめた。先生に薦められて、全校で発表することになったのは、今でも覚えている。

でも。

大学の地理の授業。自分が巡検で旅行プランを立ててプレゼンをするのが、二時間目だった。僕は青春18きっぷを使って、在来線で姫路あたりまで行くプランを立てて、発表した。誰よりもきちんと下調べをしていこうと思った。

でも。授業を取っていた学生は全員、遊びに行くことを考えていた。だから、僕の立てたプランにはだれも耳を貸さなかった。「出る杭は打たれるっていうぜ」と、大声で、教室を出る僕に聞こえるように、学生同士で会話していた。

悔しかった。中学、高校、大学と、自分の立てようとしたプロジェクトは、苦労ばかり重ねた。中学では生徒会、高校では自然科学系の部活動、そして大学では、様々な社会活動や塾のアルバイトに取り組んだ。勿論、色んな人の協力得て上手くいったものもあったけれども、自分の力を生かし切れていない苦々しさを何処か味わっていた。

一方、僕は、起きている時は常に、頭の中を文章が流れている。以前太宰治を読んだときに、「挙動の一つ一つに、括弧がついているような気がする」と書いてあったが、近いと思った。自意識過剰と中傷されるならそれまでだけれど、自分のやっていること、行動、素振り、言動が、自分のモノとは思えないことの方が多かった。むしろ、「こうあるべき」とか、「こんな自分なら人は好きになってくれる・興味をもってくれる」と考えて、そんな自分に見られるように、我を張っていた。

この「自分を演じている」感を、どっかにやってしまいたかった。ありのままの自分を、愛してくれる人が欲しかった。だけど、自分の能力を「能力」と見てくれて、生かしてくれる人が現れないか、ずっと探して、待っていた。

そんな中出会ったのが、「大学教育ツーリズム」という企画だった。

大学3年生の頃だった。授業が同じで、以前から少し交流があった、「理想主義」で授業中いつも「良い子発言」をしているイメージだったK君が、大学教育ツーリズムの説明会に僕を誘ってくれた。

全国学力学習状況調査において、毎年成績が良いことで有名な秋田県における、学校教育を見に行くということで、以前から旅に憧れていた僕は、わくわくした。

もともと、教育系の大学に入った理由が、両親に「先生が向いている」と言われたことだった。1・2年生で学校のボランティアに行ったけど、もっと強い、「教育に自分が関わっていくんだ」という決意をさせるような、出来事が欲しかった。向いているのは、自分でも、もう分かっていた。だけど、この世界で生きていく、もっと前向きな理由が欲しい。

説明会では、運営及び予算会計をいきなり、当時リーダーだったRさんが僕に任せた。ほぼ初対面で、しかも未経験であったにも関わらず、その後も徐々に、様々な運営の仕事や、資料作成に携わることになった。僕は、自分の力を生かせる場がここにあると、感じ始めた。

しかし、友人はなかなかできなかった。研修当日になっても、参加した方々は僕と積極的には関わろうとはしなかった。僕は話上手ではないし、自分に自信が無かった。それでも、何人かの先輩は僕に親しく話しかけてくれて、今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。僕は欲張りだから、どこかいつも淋しい気持ちがあったけど、確かに周りの人たちは僕に優しかった。それをきちんと、悲観的にならずに認めたい。

一人、移動のバスの中で話しかけてくれた人が、Ⅰ君だった。彼は当時大学二年生だったのに、会社の社長をやっている凄い人だった。彼と将来の教育の在り方について、秋田県の視察を通して学んだことをネタに話していると、なんだかようやく、「仲間と打ち解けた」気分になった。

2泊3日の視察を終えて帰省すると、資料作成、プレゼンテーションの課題の山がそびえていた。リーダーが忙しくて身動き取れない中で、自分にできることを探して。僕は自分の会計計算の仕事をしながら、研修に同行したメンバーにお願いして回って、資料作成を手伝ってもらった。

一回目の、大学内での活動報告会。来場者は、3人。

莫大な資料、プレゼン、頭を捻ったワークショップ企画も、小さいながらに行った。来てくれた三人に感謝しつつも、わびしさは心につのった。

二回目、繁華街のカフェを借り切って行われた、大学外の報告会。教育委員会や、大学関係者を始め、30人近くが集まり、お洒落な室内空間も相まって、漸く自分たちの価値が広まり始めたのだと、嬉しい気持ちになった。

自分にとって、生きる場所はここにあった。

表現したものが、誰かの為になる形で、届く場所。この場所で、呼吸していたいと思った。自分が呼吸していた証を、ここなら残していっても、誰も文句は言わないだろう。大学の最終成果報告会で奨励賞をとり、自分のやってきたことに自信と誇りが持てるようになった。

そう思った学外の報告会から、一年が経った。

2年目の「大学教育ツーリズム」が、昨日、幕を閉じた。

あの頃、すなわち大学3年生に説明会に行く以前の僕が、長い間欲しかったもの全てが、今、僕の傍らにはある。

友人、仲間、支えてくれたみんなと、その人たちとの大切な思い出。穏やかな気持ち、生きる理由、そして恋人。就職も決まった。今では親友のKと、一緒に卒業旅行として海外にも行った。

これからの人生に、希望を持てるようになった。嬉しかった。

書くことは、今でも時に息苦しくなることはあるけれど、ずっと、親しみ深くて、大切なものになった。自分が変わることができた全ての原因をここに書くことができないのは残念だけれど。それでも、僕の人生を変えてくれた全ての人、運命、そして挑戦すること、考えること、書くことに、感謝の気持ちを伝えたかった。

ありがとう。

これからも、息の根が止まるまで、僕はみんなと生きていたいです。

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