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エッセイ:道理の前で


人は人として正しい振る舞いを求められますが、逸脱した者には、人は罰を与える。しかしあまり厳格だと自分の首を絞めることになりかねない。だから大目に見るということが、あってもいい。


道理の前でひとりの門番が立っている。
その門番の方へ、へき地からひとりの男がやってきて、道理の中へ入りたいと言う。
しかし門番は言う。
今は入っていいと言えない、と。

道理の前で』フランツ・カフカ



世の道理、己の道理

あるスポーツ選手が試合に出場しただけで観客からブーイングを浴びる。移籍時に不義理を働いたからだという。人の世にあっては、筋とは、通さねばならぬもの。誰もが他者との関わりのうちに生きている。
ゆえに人は世の道理ルールに従うことが求められ、求められるがゆえに人は道理を求める。
道理と人は循環的な関係にあり、この意味において、誰もが倫理的な眼差しの中に生きています。

ブーイングを浴びた選手が罪悪感を覚えたかどうかは不明ですが、浴びせた側の意図が罰することにあったのは想像に難くない。世の道理に反した者は集団の秩序のために罰せられる、べきであるから。

しかし道理が正しいから罰せられるのではない、罰せられるから、道理は正しい。世の道理の正しさを担保しているのは、罰の有効性である。
一方で、人が求めるのは己の道理であります。己だけの道理。なぜなら人は一人だから。己の道理の正しさを担保しているのは己であり、それゆえ世の道理と己の道理との間には乖離が生じる。生きづらさとは、この乖離の大きさのことであるといえるかも知れません。

道理とは、物事の正しいすじみち、人としての正しいあり方のことをいいますが、世に不変の正しさという様なものはない。だから道理は絶対ではなく、時と場所によって、人によって、関係性によって移ろうもの。
自覚ある毒親サバイバーにとって親とは迫害者であり、悪であり斥けるべきものであっても、親にしてみれば自分こそが正しいと思っていることは往々にしてあるでしょうし、ブラック企業勤務で心を壊された人にとっては会社という組織はみな悪かも知れず、ひいては現代社会そのものが悪と映っているかも知れません。

人によってものの見方は異なるといえばそれまでの事ですが、人はみな異なるということ、この差異は絶対であり、絶対であるがゆえに根が深い。深いばかりでなく、抜けるものでもない、抜き差しならぬ根であります。
誰もが「私」でしかあり得ない。
誰もが他者たり得ず、唯一無二のこの「私」でしかあり得ないということは、肯定するより他どうしようもない、絶対である。

私の見ている世界は、、、、、、、、、絶対に誰ともちがう、、、、、、、、、
なぜなら私は、、、、、、唯一無二のこの私であるから、、、、、、、、、、、、、
私はこのようにしかありようがない、、、、、、、、、、、、、、、、
ゆえに私は、、、、、私であろうとする限りつねに正しい、、、、、、、、、、、、、、、、

世に求められる道理と己が求める道理との乖離は、誰にでもあるはずですが、この乖離は埋められるべきものでもなければ、埋め得るものでもない。なぜなら私の求める道理こそ「正しい」のだから、と開き直るより他はない。開き直った上で適度に距離を取る。
誰もが世の中に生きている。世の外などない。世の中にあって、世の道理と適度に距離を取ることが、世の「罰」から身を守る術である。世の罰とは仮の「罰」であり、世の悪もまた然り、仮の「悪」である。真の悪は、真の罰は、真の罪悪感は畢竟、己の道理によるものでありましょう。内心は他人がどうにかできるものではない。

もし世の中とうまく折り合いがつかず、そんな自分に罪悪感を抱いているのなら一度疑ってみてはいかがでしょうか。その因は果たして自身にのみあるのかと。他人の集まりが世の中であります。お互い様という言葉もある。明日は我が身という言葉も。
逸脱した者へのおおらかな眼差しが、あっていい。
あるべきである。
そのためには、誰もが自分と同じように、己の道理を求める途上にあると想像するだけでいい。
誰もが道理の前にあると。






本稿を執筆するにあたって、谷口崇氏の作品には多くの示唆をいただいた。現代のカフカである。

このお父さんの器よ