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エッセイ:退職の思ひ出



だれのせいでもなくて
イカれちまった夜に

『ナイトクルージング』フィッシュマンズ



退職代行サービスを利用した若い人がその理由を尋ねられ、直接上司に伝えたが埒が明かなかったからだと答える。あなたの代わりは誰が埋めるのだと詰められたのだと。
屁理屈であります。
答えはハゲ、お前である。

だが責任をとるのは上司であるハゲお前一択であるとは言えない。相手は上司の何たるかさえ理解できていない馬鹿なので、言っても理解できないでしょう。
そら絶句しますわな。

責任とは責めを負うこと、なすべきことを引き受けることであり、代わりは誰が埋めるのかとは、この損失を補填すべきは辞める側にあるという責任転嫁以外の何ものでもない。
組織に上下関係があるのは責任の所在を明らかにする必要があるからであり、無能のくせにエラソーにふんぞり返っていられるのも、いざとなれば腹を切るからである。とはいえ人は弱い。弱いゆえに狡猾であります。

自分が負うべき責めを下の者に転嫁する時、しばしばなされるのは相手に罪悪感を抱かせることで、誠実な人ほどカモにされる。
組織のことを考えず自分の都合を優先するのは身勝手であるという主張が「正しい」のは、主張者自身に対してだけであり、他人に当てはめることこそ身勝手であり、責任をとるのは上司たるハゲお前である。

罪悪感は人に善悪を教え、人を成長させることもあれば、人の心を壊し、自尊心を奪い、自由を奪います。責任の所在ということに尽きますが、自分と向き合う人ほど退職に踏み切れず、悩みに悩んでハゲていく。自分一人で抱え込み、そうしていつしかおかしくなる。責任の所在は大事です。ですが自分のいる場所は、もっと大事です。

石の上にも三年、もうそんな時代じゃない。
自由とは全体のなかにあって適切な位置を占める能力であるという。
ひとつの場所にしがみつき、狂うほどにはこの世界に価値はない。
きっと何処かに正気でいられる場所がある。
見つからなければまた探せばいい。
あると仮定すれば何だって探せる。
生とはこの繰り返しである。
この移ろいである。