エッセイ:誠実さのかけら
誠実さのかけらもない奴がいるんだ、今度会ってみないか。
と尋ねられ、顔が見てみたいもんだという気にはなっても、関わりあいたいという方はまずいないでしょう。
仕事であれ遠い親戚であれ、近隣住人であれ、友人の知人であれ、自分が関わる人にはせめて、かけらくらいは期待するものですが、誠実さのかけらすらない者を人でなし、人でなしとは人を人とは思わぬ者とすると、誠実さのかけらとは、人を人と思う心。
字引によると誠実とは、「私利私欲をまじえず、偽りや飾りのない真心をもって人や物事に対すること」とありますので、あながち間違ってはいないでしょう。
人をヒトと思う心
人を人と思う心とは、あなたの心であり、私の心であり、私たちの心、すなわち社会の心でありますが、グローバル資本主義が席巻する現代社会においては、人はヒトという記号であり、記号に置換された人とは計量可能なコストであり、それ以上でも以下でもなく、人ではない。
人であればあるはずの属性、生まれたところや、皮膚や目の色も資本家にとってはどうでもいい。
この意味においてグローバリズムとは、人を人とも思わぬ人でなしの思想、世界を画一化する全体主義のイデオロギーでありますが、人は誰しも、自分の置かれた環境を内面化するもの。本能、または生存戦略といってもいい。
資本家が人をヒトというコストと見、そのパフォーマンスを重視するように、現代人は限られた時間と資力をいかに功利的に使うかを、コスパだのタイパだのを考えながら生きている。
結婚のコスパはどうか、出産は、育児は、マイカーの所持は、家を建てることは。
『資本論』を読むなら日本語訳の抄訳の方がタイパがいいでしょうし、ユーチューブで簡潔にまとめた動画を倍速で見ればなおいいでしょう。『失われた時を求めて』を通読するのに費やした時間は、膨大で過剰なコストでしかない。
資本主義(環境)の内面化とは、突き詰めれば、己の人生を営利目的で経営することであるといえます。配当を約束し、出資者を募り四半期決算を導入している人もあるらしい。とは冗談ですが、己の人生の経営とは畢竟、自己の疎外に他ならず、自己疎外とは己から人性を剥ぎ取り、人をヒトにする、人でなしの所業であります。これはやぶ蛇、知らぬが花ではないでしょう。私たちの心が、知らず知らずのうちに、茹でガエルさながら人を人とも思わぬように慣らされていく。もはや誠実さのかけらもなく笑っている奴は珍しくないが、珍しくないがゆえに関心もない。
資本主義は個人を疎外するといわれてずいぶん久しいですが、グローバリズムにおける疎外とは国籍や人種や宗教、民族といったアイデンティティを剥ぎ取り、人を漂白し、ヒトにする。するとヒトには人がヒトにしか見えなくなる。
グローバリズム?
まあええんちゃう。
知らんけど。
と思つてゐるヒトたちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。人である以上、人でなしには成り下がりたくはない、それだけのことですが。
抗う必要がある。
以上、だらだらと書き連ねて参りましたが、限られたパイを奪い合い、余裕のない現代にあって、人でなしとは強者の条件であるかも知れず、誠実であることは弱きことであるかも知れません。でもせめて、誠実さのかけらくらいは持ち合わせていたいものです。
最後までお読み下さり、ありがとうございました。
グローバリズムとは「悪」であるというのが本稿の立場です。国籍や人種や宗教、民族といったアイデンティティにかかわりなく、この国で暮らすすべての人のために共闘して頂ければ幸い、ですが、まだまだ少数派でしょうね。