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板書の効用

勉強
子育ての風景

レポートでも企画書でも
何かまとまった文章をどうやって書いているだろうか?

何かとにかく何かをパソコンにどんどん何か打ち込む。
それらを組み替えたり付け足したり削ったりして書く。
と教えてくれた人もいたのだが
やってみると
何かすごく平板な感じになって書き込んだ言葉のニュアンスというか重みが
全部同じになってしまっているような…。
で、やっぱり今までどおり、普通の裏紙に書くことに。(笑)
そこで、パソコン入力との違いが判ったのでござる。

パソコンに書き込むときには
普通、同じ字体で同じ大きさで同じ行間となる。
ここは大事だとマーカー入れたり赤字にしたりはできるのだが
わざわざ行間やフォントを変えて別の文章をはさむ
ナンてことはしないよな。

手で書くと字の大きさも濃さも自由にできて
吹き出しみたいに書き足すこともできて
これ、絶対大事!ということは真ん中に大きく書いたり
ちょっと書いておこうみたいなことは隅っこに小さく書いたり
丸や四角で囲んだり、矢印を引っぱったり
これはダメだということにはキッパリ斜線を引く!
だから
たとえ同じ字数だろうとそこにある情報量は
手書きの方が圧倒的に多いのだ。
しかも書いたものを見ると自分がどう考えたかが「見える」。
そういうわけで
私は何かまとまったものを書こうというときには
まず、手書きから始めている。
さてそこで
イマドキたくさんの字を手で書く人は、そういないと思う。
学校でも子どもたちはノートに字を書かずにプリントを貼る。
実際、プリントを貼ってもはみ出さないサイズのノートも出ている。

自分の時代(半世紀以上前!)にはやたらと書かされた作文も
今ではそうそう書かせていないとか。
とにかく、時間のかかる「積み上げ」をしない(できない)らしい。

さて、ノートに手で字を書こうとすれば
ある程度速く書く必要がある。(もちろん、読める字で)
普段手で書いていない人がボリュームのある文章を書こうとすると
すぐに手が疲れることに気付くはずだ。
手で字を書くのは肉体労働なので、「か弱い手」ではたくさん書けない。
そして、聞きながら・見ながら・考えながら次は何の字をどう書こうと考えなくても手が勝手に書けるようでないと追いつかない。
つまり
授業でノートを取るには「鍛えられた・強い手」が必要なのだ。

書くためには、どう書くかということだけ考えがちだが
手の「力強さ」と「持久力」が必要なことは忘れがちだ。
書くためには、まず書けるだけの「力」がなければならないのだ。
それに加えて
近頃の人は読解力が足りない
などというボヤキを漏れ聞くが
考えるに、自分が学校で先生の板書をノートに写し続けていたということは
先生がしゃべる・黒板に書く
生徒が聴く・黒板の文字を読む・黒板の文字を書き写す
ことが日々積み重ねられていたワケだ。
それも、全科目で!
耳からも目からもたくさんの言葉と文字と文章が入ってきて
それを自分の頭でなんとかこなして・いやこなしてなくても
とにかく書き写していたワケだ。
おびただしい言葉と文字と文章が自分の中外を行き来していたことは間違いなく
それが言葉や文章の体力と能力を作っていったのだと思う。

ちなみに
何年か前、小さな会議でテーブルを囲む人たちに見えるように
スケッチブックにマーカーで議事録を書きつけていたら
「わあすごい、漢字で書いてる!」と
手で漢字が書けていることの方を称賛されて
「違う、そこじゃない」と突っ込みましたでござる。

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