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妄想小さな貸本屋(2)

物語
読書

「ちりんちりん」と聞き覚えのある音がした。
目を上げると10mほど先にちょっと年かさの男性が立っていた。
あの「貸本屋」がある場所だ。「店主の好きな本だけ置いてます」という。
「いらっしゃい」とこれも聞き覚えのある年齢不詳の声が聞こえた。
「今日はどんな本がいいですか?」
「あのね、知り合いからここを聞いてきたんですが、久しぶりでちゃんとした本を読みたくなって」「退職しましてね」「ひまになっちゃって、いや、ようやくひまができたので本でも読もうかと思ったんですが何しろ何十年ぶりなので、いや、ねえ、それが…」
あー、一人語り始めちゃったよ。多分長くなるよなー、どうしようかな、ここで待つか、どこか他の所で?いや、まあここらでいいや。
視野に入らないように道路の反対側、その人の斜め後ろ5mくらいのブロック塀の側に立った。切れ切れに話が聞こえてくる。
「何と言うか、ちゃんとした本だけどあまり長くなくて、いや文庫とか新書より厚い本がいいと思うんだけどあまりねえこう深刻なのじゃなくてサスペンスもの…とか恋愛ものとかじゃなくてねえこう読みごたえがあって何と言うかこう親しみのあるー」
いや、これは面倒な、と思いつつも思わずそっと何歩か近寄っていた。
「これでいかがですか」と小さな窓口から本が差し出されてきたがどんな本かはよくわからない。「この本には冷戦時代にソ連からアメリカに亡命してきた二人の男性のロシア料理に対する愛と郷愁が込められていて亡命というとすべてを捨ててきたというイメージがあるんですがすべてを捨ててこられるはずもなく亡命で得たものと失ったものとは同じくらい際限がないと言うことで現代という実在的孤独の時代に濃厚なあつあつのスープの入った鍋ほどーあっ、要するにあまり長くなくて深刻じゃなくてサスペンスでもなくて恋愛ものでもなくて読みごたえがあって親しみの持てる本ですのでいかがでしょうか」
あ、あ、なんかスゴいね、よく出してくるもんだな。
男性は「おおっ」と受け取っている。「ほほおなるほどうんうん」
「お客様の世代ですと冷戦時代の雰囲気や亡命については大まかにご存知でしょうから読んでいて大きな違和感はないのではと思いますが若い方ですと一々調べないと読み進めないこともありまして」
「ああ、これはいい、いいと思いますよ、ありがとうございます」
「で、それで、と、料金はおいくらで?」
店主はこの前私が聞いたのと同じことを言っていて、なんだかちょっと自分が先輩になった気がした。それで、と。聞いてるだけでお腹いっぱいになった感じだから、今日は少し軽い感じのを借りようかな。
私はこの前借りた「アルカイダから古文書を守った図書館員」と300円を手に足を踏み出した。この本は多分買うことになると思う。

本日(誰かが)おすすめされた本
「亡命ロシア料理」ピョートル・ワイリ/アレクサンドル・ゲニス著 
沼野充義/北川和美/守屋愛 訳 発行未知谷

※この本の新装版が出た2014年は奇しくもロシアがウクライナのクリミア半島を併合した年である。

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