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水戸黄門と暴力

読書

以前は午後のひと時
おじいちゃんとおばあちゃんはよく水戸黄門の再放送を見ていたものだ。
「みんな、死んじゃった人ばかりよねえ。」
勧善懲悪で筋が複雑じゃないからいいのだそうだ。
水戸黄門は「先の副将軍」という高い身分があって
お供の助さん、格さんはすごく強い武士だ。
それに風車の弥七やおぎんさんが付いている。
万全の構えだ。
で、悪い奴の本拠地に乗り込んで大暴れした後に
懐から印籠を取り出して有無を言わせぬ力でねじ伏せる。
この時代、最強の力づくかも。
そういえば、ずっと昔に見た回でとどめの印籠を見せたのに
“悪者”が「ええいっ、高貴の名をかたる不届きものぢゃ!切り捨ていっ!」
と、やったことがあった。
もちろん、水戸黄門チームは強いので蹴散らしてしまったが。
正義は力が無いと行えないもののようだ。
いや、力のある者が正義なのだろう。
でももし
水戸黄門が悪い人だったらコワいなあ。
さてそこで以前読んだ本を紹介したい。

「暴力と人間」ポール・トゥルニエ著 ヨルダン社

全ての人間の中には暴力的な欲求があるものだ、と。
そもそも生きるためにはモノを食べなくてはならないが
食べるということは食べ物に対する暴力で・愛することもまた暴力である。
それゆえ、生きることは暴力とは切り離せない、としている。
動物でもそこは同じなのだが
動物は本能によって暴力を制御しているのに対して
人間の本能はもはや不完全なものになっていて、暴力が暴走するのだと。
(っていうか、力が制御できずに暴走することを暴力というのでは?)
このように、生きるためには“暴力”が必須だが
“正しい暴力”と“悪い暴力”とを区別することは・どうやらできない、という。
(実際、正義を振りかざした暴力が一番凶悪なのだ)
(いや、だから、力が制御できずに暴走することを暴力というのでは?)
動物が生きるための“暴力”は必然としての“暴力”なので“罪”はないが
理性を“持ってしまった”人間の暴力は“罪”である
と、私は読んだ。
さてそこで
以前テレビで見たアフリカのヒヒの群れで起こった事を。
ヒヒの群れのボス争いで若頭の1頭が現ボスに襲い掛かって、勝った!
と思ったら
現ボスの周りにいたメスたちが
アンタ、ウチの人に何してくれんの!!とばかりに
一斉に牙をむいてその若頭に襲い掛かって追い出してしまったのだ。
えっ?えっ?オレ、ボスに勝ったんだよね?で、ナンで!?
という様子で逃げていった若頭がおかしかった。
傷ついたボスはメスたちに介抱されていたから慕われていたのだろうなあ。
強いだけでなく、人望(ヒヒ望)がないとトップは務まらないのですな。

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