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令和は「無能」の価値が重要

全能と無能は対立関係ではなく同時に存在します。

まず「全能感」というのは「楽しい→苦しい」
それに対して「無能感」は「苦しい→楽しい」

このように両者とも楽しいものから苦しいもの、苦しいものから楽しいものへの変換が行われる

「全能感」を感じられるものとしては、蹄跡がありマニュアル化されているものというものが考えられる
これらは概ねロボットに代替可能であり、例えば機械的な作業で、効果や結果が100%出るものというものは全能感を感じられる
ゲームに関してはあらゆる分野での全能感が包含されている

「無能感」を感じるものとしては終わりの見えないもの
例えば実験であったり哲学的な問題であったり禅問答など
これらは行っても終わりが見えなく結果が出ないという点で無能感を感じる
しかしこの無能感を感じている時に、苦しみというものを感じるが、苦しみを感じている時にその苦しみを緩和させようとしイノベーションなどが生まれる

「全能感」と「無能感」のバランスが非常に大切で、どちらかに寄ってしまうと延々と苦しい状態に陥ってしまう
これはあらゆる物事に普遍的に生じる原理である

理想的な有様としては、哲学において延々と悩み宇宙の根源などに思考を費やす、一方、ゲームやアートなどで全能感を感じる。
または単調な仕事において全能感を感じつつロボット的に仕事をやり、答えの出ない問いをたまに課題とすることで、人間本来の欲求を満たすことが可能となるのではないかと考えます。

僕は「全能感」を感じることと「無能感」を感じることにおいては、人間が生活をしていく上で非常に重要な、人間の根源的な欲求を満たす一つの基本原理だと考えています。
この基本原理はあらゆる物事に応用することができます。

「全能感」の逆説的弁証法

「全能感」の逆説的弁証法については非合理性という人間性を重視する働きに寄与すると考えられます。

これまでの近代社会においては、「非合理性」や「非効率的」なものというものは無視され続け、「合理的」な選択を常にとってきました。
その結果、近代社会を走ってきた日本は停滞する時期に陥ってしまいました。

ではなぜ合理主義が行き詰ってしまったのかと言うと、人間はそもそも合理的な生物ではないからです。
「効率的」な社会に「合理的」で高い生産性を維持した「効率的」な社会を維持しようとすると、「全能感」にばかり目が行きがちで、「全能感」を目指して「無能感」というものを忌避するきらいがありました。

しかし人間は「合理的」な生き物ではないので、ここで言う「無能感」というものが失われた社会においては、人間としての進化が行き詰ってしまいます。
ここで言う「無能感」というのは実験的であり新たな可能性を生み出すが、「効率的」ではなく「合理的」でもないということですが、近代社会においてはこの価値観は重視されてきませんでした、だからこそ停滞したと考えることもできるのかもしれません。

我々は「ビジネス的合理主義」では行き詰まった社会を超克することはできないと平成の30年をかけて証明してきました。
なので昨今では、ビジネス業界においてもアート的な衝動が重要であると再認識され始めています。

しかし、僕が思うにビジネス的アート思想ではなく、本当に必要なものは「終わりの見えない実験的な思惟」を認めること、
つまり「無能」という存在価値を認めることに他ならないと考えています。


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