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愛の彼岸

さて、一般論はどうでもいい。大切なのは主観だ。主観の話をしよう。最も主観的なものこそが、最も一般的なのだから。

抑圧とは社会的に恥ずかしい想念である。だから、それを解放するのはそう簡単ではないことかもしれないが。

私が辛いから甘えたいと思っても甘えさせてくれる人はほとんどいなかった。甘えるのは上手ではない。むしろ、私に近づく人たちは私に甘えてきた。余計なアドバイスをしてきたりもして。私は自分も辛いけど、人の悩みをよく聴く人だった。なんでいつもこうなるんだろう…。

(でも、それこそが、私自身が無意識にやりたかったことなのでは?)

なぜ私の人生は、何の社会的な障害もない恋愛ができないのだろう。若い時は教会の規則に縛られ、教会から逃げるようにして結婚して、結婚してからは恋愛は社会的に許されない。教会も社会の制度も私を縛る。罪悪感のない普通の恋愛を一度はしてみたかった。それだけが人生の悔い。

(人生、諦めも必要よ。)

そこで、防衛規制が働いて、代償(類似する他の何かで埋め合わせる)ということを人は考える。

しかし、もっと根本的なところを探る方が良い。例えば、それは本当に恋愛でしか満たせないものなのだろうか?と。欲しいのは愛ではなかろうか?もっと言えば、母親/父親の愛情ではなかろうか?幼児の時に満たされず、身体を鞭で叩かれつづけた、あの傷を癒すことではないか?と。

母親/父親のように抱き締めてくれる存在は、ふつうは恋人(彼女/彼氏)しかいない。言葉では足りない。言葉にならない呻きを含めて、身体ごと魂まで抱きしめて欲しい。そうでないと心の傷は癒えない。いや、もしかしたら、それも幻想かもしれないけども…

現実ではそんな相手は中々見つからないし、世間の目もある。だから、自分が自分の母親/父親の役割を演じて、イマジナリーの世界で自分の魂を抱きしめる。そうやって、代償的に補償して、心の穴を埋め合わせる。多くの人はそうやって、外部対象のない仕方で、心の中だけで処理しようとする。

しかし、これが中々難しい。そして、どこか虚しい気持ちになる。やはり、寂しい。投影できる外部対象がないと、現実感に乏しく、実感に欠ける。一番安全な方法だけど。ああ、神様の実在を本気で信じられたなら!そうしたら、これは幻想でなく、実在になるのに。でも、真の信仰は中々難しい。

神様やら仏様を無垢に信じられる人もいるらしい。それが優しい神様なら、それはそれで羨ましいことだ。でも、私にはできなかった。その観念はイマジナリーに過ぎない親の投影である可能性を拭えない。私は失望した。私の苦痛は癒えないのではないかと。この重苦しい心を運びながら生き抜くしかないのかと。

すべては無意味である。自己も自我も何もない。積極的でも消極的でもないただのニヒリズム(虚無主義)である。そう考えても、自己肯定感は満たされなかった。私が求めているのは、無意味さではなく、愛情と肯定感だったのだ。

ならば…、自分が他者を愛すれば、愛する人に巡り会えるのではないか?相手のことを必死で理解しようとし、全力で抱きしめようとすれば、私もまた愛されるのではないだろうか?と。この、ニヒリズムを根底にした実存主義的な発想が、ロジャーズのクライエント中心療法の核心だと思われる。

私たちはあまりにも中途半端に人を愛し、あまりにも中途半端に愛を求めていないだろうか?愛は、そんなことで手に入れることはできない。全身全霊をかけなければ到達できないことなのだ、と。あまりにも過酷で、激しい戦いだからこそ、挫折してしまいそうになる。でも、それ以外の近道はない。

(心がなんだか喜んでる?)

まずはフォーカシングで全身全霊で自分に優しくなろう。まずはイマジナリーの世界で。それから、全身全霊でクライエント中心療法のような傾聴の姿勢で他者と向き合おう。それをひたすら繰り返し、精進するのだ。

そうすれば、いつの日か私の望む愛に到達するかもしれない。諦めでもなく、代償でもない愛に。

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