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他人の反応の上に自分の価値をおかない練習/自己尊重は完璧な許しの中で行われる

昨日は病院…

いつも終わった後は母に連絡をします。私のことを誰よりも心配している母は、病状に大きく一喜一憂をして、結果が悪いと心底心配をします。

今までわりと正直に伝えていたけれど…、昨日はまずまずの結果だったのに、少しよくなっていたと嘘をついちゃったのです。

なんでかわからないけれど、ふいに嘘が口をついて出た。不安がる母を私が見たくなかっただけだよね…、本当に相手のことを思っていたわけじゃなくて。。

だけど、母が送ってくれたリンゴを豚肉と煮込んだり、干ししいたけでアヒージョを作ったりした話をしたら本当に安心して喜んでたの。

嘘ついちゃったけど、やっぱり母を安心させたいと思った。あんなに喜ぶなんて…🥲





何があっても自分を責めないでね

病院に行く前に食べた珈琲館の「燻しベーコンのBLTサンド」

スモーキーなベーコンの塩気とジューシーさが実に美味でした(៸៸>⩊<៸`)♡


…私だけじゃなくてね、子どもの頃からの経験で、人から好意的な評価をされたら自分に価値があるって思うようになっちゃった人、いると思う。

しかも私は、常に人からなんの思いやりもない評価にさらされる仕事をずっとしてきたから、病状も悪化しちゃって…、仕方なかったのだけど自分を大切にできなかったのも確かなんです。

何かあったら自分を責めちゃう…

私たちは自分で自分をいちばん叩いちゃう。

だけどね、例え明らかに悪いことをしてしまったとしても、人がそうしてしまうのに本当の意味で責任なんかないんだ。

自己責任論とか自立しろって世の中の言葉、私は冷たいなと思う。

誰だって自分の身に起こってみなければ、そうそうわかるものじゃないよね。だから、何があっても自分のことを責めないでね。



最後まで自分のそばにいてあげられるのは自分だから…

あなたの内部の傷ついた存在に愛をそそぐには、まず他人の反応の上に自分の価値をおく、という考えを逆転させなければなりません。ゆっくりと、あなたはいま、ここで、そのままの自分自身をまるごと条件ぬきで認め、尊重するよう、自分を訓練しなおしてください。

『無条件の愛 キリスト意識を鏡として』より


どんなに社会で認められなくても

汚い、醜い、情けない
自分が嫌いという気持ちでも

少しもポジティブになれなくても
逃げてしまっても

なんの条件もなしに
せめて自分は自分のこと
許そうね

許せない気持ちも
許そうね

最後まで自分のそばに
いてあげられるのは
自分だから

せめて自分だけは
自分の味方をしてあげようね…



しなくてはならないのは
自分の傷に愛を与えること

さっき、本当の意味で誰にも責任はないって書いたけれど、もしあるとしたら、自分の傷に自分で愛を与えることだと思う。

じゃないと、人は自分の弱さや認めない部分を他の人に投影して攻撃しちゃったりするから…

自分の傷に愛を与えることをひとりひとりがちゃんとしていけたなら、教育でそのことをちゃんと教えてくれていたなら、世界の痛みや苦しみは少しづつ癒えていく…

そんなふうに思うのです。


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