縁食論

「孤食」や「共食」ではなく「縁食」という関係のあり方、の提案といえるでしょう。まさに〈オフィシャルでも、プライベートでもなく〉です。

縁とは、人間と人間の深くて重いつながり、という意味ではなく、単に、めぐりあわせ、という意味である。(略)いずれにしても、人間の「ヘリ」であり「ふち」であるものが、ある場所の同じ時間に停泊しているにすぎない。

27頁

それを「共存」ではなく「並存」であると述べています。「たまたまの多様性の出会い」と言い換えてもいいかもしれません。共食のように家族や宴会などでとる食事という一義的なものを共有している関係、という前提をともなうものではない、という意味においてです。

そしてそれは死者についてもいえます。死者とは「共存」はできません。死者となんらかの「縁」によって結びついているのです。

死者との縁は手紙、写真、思い出とともに結ばれているだけではない。食べものであれば、信じることができる。食べるとき、死者と同じテーブルについていると思えば、それは縁が切れていないということを意味する。

123頁

死者と「縁」によって出会い、新たに関係を結び続ける、といってもいいでしょう。

木もれ陽のきらめきは、葉と枝が吸収できない光のおこぼれがもたらす空気の建築である。窓枠の設置、すなわち外気と外光のもれこそが、囲われた空間に光と温度を与えることは、建築の基本中の基本だ。ところが、私たちの脳内は、完全遮断か完全開放かの二者択一にずっと支配されてきた。もれるという現象は、自然のなりゆきなのに。

158頁

「孤」であるか「共」であるかという二者択一にとらわれている、というのです。両者は「ひとつのまとまり」を形成している、という共通点があります。そしてそこから「もれ」てしまうものとしての出会い、それが「縁」というゆるやかな関係を成りたたせます。

   『縁食論』藤原辰史 ミシマ社 2020

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?