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s t o n e

夏の終わりかけるまだ暑さの残るころだった。私は鼻の頭にうっすらと汗を滲ませて、畑のなかの一本道を歩いていた。そこは小学校の行き帰りに使っていた通学路で、私は家に帰る途中だった。夕方で、あたりは西日に染まっていた。

まっすぐ続いた道の先の、いつもの曲がり角のところまで来たとき、ふと思い立って今までに入ったことのない道の方へと歩いていった。奥には背の高い木が茂った薄暗い道が続いていて、風がふくたびにざわざわという葉の擦れる音が私の身体をつつみこんだ。
道の端のかげになっているところには首から赤い布をかけた小さなお地蔵さまがいて、顔をのぞきこんでみると表情は柔らかく、ほほえんでいるようだった。周りの地面には色とりどりの風車が飾ってあり、風を受けるとカラカラと笑うみたいにいっせいに音をたてて廻った。私はお地蔵さまにそっと手を合わせて、また歩き出した。

私はずっと何かに吸い込まれるような心地がしていた。いつもはまっすぐ家まで帰るのに、まるで何かに呼ばれるように一人でふらふらと歩いていた。その道の先で石垣に囲まれた古いお屋敷に行き当たったのだった。

お屋敷の正面に回り込むと門は開いていて中が見えた。お屋敷は古い日本家屋で、黒い屋根瓦や丸いかたちに刈られた生け垣のみどり、散りかけの桃色の花を重たげにぶら下げた百日紅のごつごつとした幹が、生ぬるい夕焼けのひかりに照らされてつやつやと光っていた。
それから家の中で誰かがピアノを弾いているのが聞こえた。私はなんとなく自分と同い年位のこどもが部屋の中にいるのを想像した。ピアノは何の曲かはわからなかったけれどゆったりとした調べのやさしい音楽で、どこか物悲しいかんじがした。

しばらくするとピアノの音がやんで、中からこの曲すき?という子どもの声が聞こえた。それはとても小さな声だったのに外にいる私まで不思議なくらいはっきりと届いた。続いて玄関の引き戸がゆっくりと開いて、そこには私と同じくらいの年齢の女の子がほほえんで立っていた。ねぇ上がっていって。私は女の子に誘われるがまま家の中へと入っていった。

女の子に続いてほの暗い廊下を歩いていくと、私はふすまの先の畳の部屋に通された。そして何か飲み物を持ってくるから座って待っているように言い残して、女の子はまた廊下の方に出ていった。

部屋の壁際には茶色いピアノがあって、さっきピアノを弾いていたのはこの部屋だったんだと思った。そして今は夏なのにこたつが出ていることに気づいてびっくりした。でも他に座るのにふさわしい場所はなかったので、私はとりあえずこたつの前にしゃがむことにして、大人しく女の子の帰りを待っていた。
ピアノの上には白いレースの布が敷いてあって、その上にこまごまとしたものが飾ってあった。おかっぱの日本人形、こけし、海の風景画、ぬいぐるみ。それからそういう雑貨のすきまにはなぜかたくさんの石が無造作にごろごろと置いてあって、私の目は自然とそこに注がれた。

しばらくすると部屋のふすまがすーっと開いて、お盆の上に麦茶を載せた女の子が戻ってきた。女の子は麦茶の入ったコップを私の前に置くと、こたつの端に寄せてあった木のうつわを真ん中に持ってきて、よかったらこのお菓子を食べるようにと勧めてくれた。私はお腹がすいていたのでありがたく頂くことにした。お菓子はおばあちゃんちにありそうな懐かしいラインナップで、私はそこから紫色の包みのお菓子を選んでビニールの端をぴりぴり破いて、中のビスケットを小さくかじった。口の中にチョコレートの甘い味が広がった。女の子は麦茶の入ったコップを慣れた手つきでまあるく回して、氷のとけるカランという良い音がした。

私がじっとピアノの上の石を見ていると、女の子はそれに気づいたのか立ち上がって石をひとつ手に取った。ずいぶんたくさん石があるんだねと私が言うと、女の子は私の手を取ってうらがえし、手のひらの上に石を載せた。女の子の手はあたたかくて石はひんやりと冷たく、重みがあった。
そしてこれは石じゃなくてストーンなのだと女の子はいった。私は女の子が口にしたストーンいう言葉の意味するところがよくわからなかった。石とストーンは違うものなのだろうか。
すると女の子は石をもっている私の手をつかんで、そっと自分の耳のところまで持っていった。まるで音楽でも聴いているみたいに。それからあなたもやってみるといいよと言った。
私は言われるまま、よく考えずに女の子の真似をして石を耳に当てた。すると石から何か音がきこえたので、びっくりしてすぐに離した。きこえた?といって女の子はうれしそうに目をほそめた。
ここにある石はすべて音がするの。特別なんだよ。私はこれをストーンって呼んでる。
私はすごいねとつぶやいて、もう一度そっと耳に石を近づけた。今度はじっくりと石の音に耳をそばだててみる。するとパチパチという火の粉がはぜるような音がきこえた。まるで大きな焚き火が目の前にあるみたいだった。私は目を閉じてうっとりと石の音に耳を澄ませた。
鳴っている音は石の記憶なの。石の思い出が音になって残っているんだよ。きっとその石は暖炉の中とかにあったんだと思う。
石の記憶。私はその言葉が気に入ったので、胸の中で唱えてみた。
ここにある石はぜんぶ違う音がするから、気に入ったならいろいろきいてみるといいよ。女の子にそう言われて、私はすでにこの不思議な石、ストーンのとりこになっていたので、わくわくしながらひとつひとつの音を順番に確かめていった。
そこには本当にいろんな種類のストーンがあった。まるで大雨のあと、水がざあざあと勢いよく流れてゆく川の音。険しい崖から身をのりだして下を覗きこんでいるような、なんだか体が冷たくなる、ひょおおおっという風の音。雨上がりの明るい森の中、きらきらした木漏れ日から降りそそぐ鳥たちの囀りの音。

これは特別なストーンなの。そういって女の子が手渡してくれた石があった。私のおかあさんのおかあさん、そのまたおかあさんのおかあさんのおかあさんが生まれるよりずっと前、私のふるさとの石なんだよ。
それはなめらかな艶のある、青みがかった綺麗な色の石だった。
そして私はその音をきいたのだけれどうまく言葉にできない。今までの生活の中であまり耳にしたことのない種類の音だったから。でも女の子が使った「ふるさと」という言葉がしっくりくるような気がした。聴いているうちになんだか懐かしいような気持ちになってくる、不思議な音だった。たぶん知っている音が、なかでいくつか複雑に混ざりあっているのだと思う。たとえばうすい貝殻が何枚もしゃらしゃらとこすれあうような涼しげな音。高い塔の上から何かを告げるようにゆっくりと響く、重たい鐘の音。こぽこぽと深くて暗い海の底へと潜ってゆくときにできた、静かな泡の音。
耳を澄ませて、いつまでもずっと聴いていたい音だった。そんな私の気持ちがわかったのだろうか、もう日が暮れるからそろそろお家に帰った方がいいねと、ぽつんと女の子がいった。

帰るとき、そういえばこの家には女の子の他に人はいないのだろうかと気になって、おかあさんはどこ?と女の子にきいてみた。するとおかあさんは奥の部屋で、いつもこの時間は眠っているのだという。でもそろそろ起きる頃だから静かに帰ってね、黙ってあなたを家に入れたことがばれたら私叱られちゃう。女の子は笑いながらそういった。

また遊びにおいでという女の子に手を振ってお屋敷を出たとき、私はなんだかすごくさびしくて胸の奥がじんわり痛んだけれど、来たときと同じ道を通って、ざわざわという木の葉の音に包まれて急いで家へと向かっているうちに、その気持ちもあの古いお屋敷にいた女の子も不思議なストーンのことも、なんだかすべてを忘れてしまった。

── 石を触るとなぜだか耳の奥がくすぐったいようなかんじがする。石には何かほかにも別の呼び方があったような気がする。まるでなにかの名残みたいにそう思うことがある。

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