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"The Art Of Loving"(エーリッヒ・フロム『愛するということ』より)

エーリッヒ・フロムは、社会(心理)学・精神分析・哲学とを通して、「人間」について深く考察した素晴らしい学者のひとりです。

『自由からの逃走』『愛するということ』などは、よく知られた著書でしょう。

さて、人間のもっとも深い欲求は、その分離を克服し、孤独というその牢獄からのがれるという欲求である。この目的を成就することに全面的に失敗するということは狂気を意味する。・・・・・・人間――あらゆる時代の、そしてまた、あらゆる文化における――人間は、ひとつのしかも同じ質問、すなわちいかにして分離を克服するか、いかにして合一を成就するか、いかにして自分だけの個体的な生命を超えて、安らぎを見い出すかという問いの解決に直面させられている。

エーリッヒ・フロム 1956年『愛するということ』紀伊國屋書店

生産的な仕事の中で成就された合一は、対人間的なものではない。祭儀的な融合において成就される合一は一時的のものである。同調によって成就された合一は偽合一である。つまりそれらは、実存の問題にとっては部分的な解答にすぎないのである。完全な解答は、愛における対人間的合一、もうひとりの人との融合の成就にある。・・・・・・この対人間的融合の欲望は、人間の最も強い要求である。それはもっとも基本的な熱情であり、人類をひとつにし、集団を、家族を、社会を保持するところの力である。それを成就することに失敗することは、発狂あるいは破壊――自己の破壊あるいは他の破壊を意味する。愛なしには人間性は一日も存在しえないのである。

エーリッヒ・フロム 1956年『愛するということ』紀伊國屋書店

成熟した愛は、本来の全体性と個性を持ったままの状態での合一である。愛は人間の中にある活動的な力である。人間をその仲間から隔離するところの壁を破壊する力であり、彼を他の人びとと結びつける力である。愛は彼をして孤立と分離の感覚を克服せしめるが、しかも、彼をして彼自身となり、その本来の姿を保持するようにさせるものである。愛において二人の人はひとつとなり、しかもふたつにとどまるという矛盾したことが起こるのである。

エーリッヒ・フロム 1956年『愛するということ』紀伊國屋書店

今日では、責任は、しばしば義務、すなわち外側からの課せられたなにものかを意味している。しかし、その真の意味においては責任はまったく自発的な行為なのである。それは相手の、あるいは表現され、あるいはまだ表現されていない欲求への反応である。《責任に応える》とは《応答する》ことができ、《応答する》用意ができていることを意味する。

エーリッヒ・フロム 1956年『愛するということ』紀伊國屋書店

幼児の時の愛は《私は愛されているゆえに愛する》という原則に従っている。成熟した愛は《私は愛するゆえに愛される》という原則に従っているのである。未成熟の愛は《私はあなたを必要とするゆえに愛する》といい、成熟した愛は《私はあなたを愛しているので、あなたを必要とするのだ》という原則に従っているのである。

エーリッヒ・フロム 1956年『愛するということ』紀伊國屋書店

もしも私が、真にひとりの人を愛するならば、私はすべての人を愛し、世界を愛し、生命を愛するのである。もしも私が、誰かに「あなたを愛する」といえるならば、「私はあなたたちの誰をも愛する、私はあなたを通して世界を愛する、私はあなたを愛し、また私自身を愛するのだ」といえなければならないはずなのである。

エーリッヒ・フロム 1956年『愛するということ』紀伊國屋書店

われわれすべては、ひとつのものの部分であり、われわれはひとつのものなのである。・・・・・・愛とは本質的には意志の行為であるべきもので、私の生命をもうひとりの他の人のそれに完全に委ねるという決断の行為でなければならない。

エーリッヒ・フロム 1956年『愛するということ』紀伊國屋書店

何年たっても色褪せない古典というものはあるものです。

ちなみに、フロムはこの著書の中で、精神分析の祖であるジークムント・フロイトを批判的に考察しています。経済学者ピーター・ドラッカーの本によれば、フロイトの精神分析は実際のところ、当時の経済・労働状況というのを考慮に入れる必要があることを教えます。

そんな観点から、私たちは新しい対人援助のあり方を考えてみる必要もあるかもしれません。

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