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忘備録として、、、①

noteを始めてから、震災の話ってあんまりちゃんと書いてなかったなぁ、、、。
と思い、間もなく3/11もやってくるので忘備録代わりに書いていこうかと思います。

2011年3月11日のあの時間、私は富岡町夜ノ森地区にある某電力会社の社宅の看板前に愛車のクロネコ号を停めて、伝票に書いてある部屋番号を探して看板を見ていました。

地鳴りの音がして
「何事?」
と思ったら地震発生。

エンジン停止状態にも関わらず、車が勝手に走り出しそうな勢いで動きだし、思わずブレーキを踏み込みハンドルを体で抱き抱えるように押さえつけていました。

地震が落ち着き、車は動いてなかったので降車し、子供のお迎えに出ていた奥さまたちの所に駆け寄り声を掛けました。

周りを確認すると、塀や屋根が崩れていたり、道路にも亀裂が。

奥さまたちはケガもしていなかったのでひとまずそこの配達を終わらせて乗車。

会社の電話も自分の電話も不通状態。

とりあえず車を走らせ、次の配達先に向かいました。

道中、至る所で道路が陥没していたり亀裂が入っていたり、、、。
周囲の家も、大きく崩れている家もあればブロック塀が崩れて道が遮断されている場所もあったり、、、。

なんとかすり抜けて配達先へ。
「この状況でよく来たわね!」
と声を掛けられるも、
「仕事なんで、、、。」
と答えつつ、家の状況を聞きました。

電気も水道もガスも止まっていると教えてくれました。

電気が止まったのは、信号機が消えていたので気付いていました。

「さて、会社の人に連絡も取れないし、どうしたものか、、、。」
あらかたの配達を終えてその後の行動を考えていました。

とりあえず、大熊方面へ向かいながら隣のルートの人の方へ行ってみました。

とある駐車場で隣ルートの車を発見。
横付けしてドライバーに状況を確認したところ、やはり会社と連絡が付かないとの事でここで待機していたと。

しばらく一緒に待機していると、会社の電話に
『全車来庫』
の一斉メールが。

一緒に6号線に出て大熊町の事務所に向かいます。
途中の熊川にかかる橋で驚愕の光景を目にします。

田んぼの真ん中に家や車が横倒しになり、海沿いにあった集落が消えて海が一望出来たのです。

そこの集落には私の叔母が住んでいました。
頭が真っ白になる中、事務所に到着してから
「津波が来た」
という事実を知りました。

いつもの時間よりすでに2時間近くオーバーしています。

「とりあえず、子供たちのお迎えに行かせてください。」
と頼み、道具を持ったまま迎えに。

いつもの道は不通状態。

周りにまわってなんとか息子の小学校向かいの児童館へ到着。
児童館も窓ガラスが割れていたりしていましたが、保育所で娘が待っているので先生たちとの会話もそこそこに急ぎ保育所へ。

いつもなら保育所→児童館の流れですが、状況がわからない中で幼い娘を歩かせる危険を回避する為に息子を先に迎えに行きました。

娘は、新設された建物内に避難していました。

2人とも無事。
自宅に向かいます。
自宅には母1人でいるかも知れないと思い安否確認して会社に戻ろうと考えました。

自宅に着くと、父が帰ってました。
川沿いの駐車場から間一髪で車を出して戻って来れた父。
父が駐車場に着いた時、川が遡上してくるのが見えて急いで戻って来たとのこと。
父が出た直後にその駐車場は浸水被害に遭ってしまいました。
本当に間一髪だったそうです。

「あんな勢いで川の水が遡上してきたのは初めて見た。」
そう父は言ってました。

幸いな事に、我が家は海から10キロ近く離れている上に地盤が硬い為、ぱっと見では家はほぼ無傷でした。

安否確認した所で子供たちを連れて会社に戻りました。
停電で金庫が開けられず、当日の売上金を持っていたからです。

「どうにもならない」
という事で、戻って1時間もせずに自宅へ帰れました。
売り上げ金は「翌日まで各自保管」と言われたので持ち帰りました。

家に帰ると、父が外でカセットコンロを使って夕べの鍋を温めていました。
仏壇からろうそく🕯
懐中電灯と外用のソーラーライトを中に持ち込み食事。

「明日は6:30には会社に行くから」
と、早々と布団に入って寝ました。
子供たちはちゃんとパジャマで。
私は仕事着のまま(念の為)寝ました。

枕元にラジオと懐中電灯と靴を置いて寝ました。

大熊町の家の布団で親子3人で寝たのは、3月11日の夜が最後です。

「明日は仕事行って片付けしてから、おばちゃんたちを探してウチに連れて来ないとな。それから、〇〇さんちも海沿いだから確認して、よければウチに来てもらおうか」
「沢水は出てるしから濾過して煮沸して飲めるから水は大丈夫。倉庫に野菜も保存してあるし、冷蔵庫の悪くなる物から食べていかないとね」
「カセットガスと薪がどれくらいあるか確認しないとね」
「明日、お父さんは家が壊れてないか確認する」

など、翌日の打ち合わせを両親としてから寝ました。

我が家が大変な事態になったのは、実は震災当日ではなくて、翌12日からです。

翌日から今日に至るまで、こんなにも長い時間大熊町の家に帰れなくなるとは、この日は全く考えてもいませんでした。

大熊町の家の布団で、親子3人で寝た最後の夜になるとは思いもせず、非常事態ながらも冷静に穏やかに眠りにつきました。

1日目は以上。

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