推しの歯
「ちょっと歯、捕獲してくる!!」
その文面に、私は腹を抱えて笑った。
推しが主演のドラマが放送されて2時間後のことだった。
こいつらヤバい。私も相当だが、みんなヤバい。
ーーー
我々のように特定の誰か(あるいは何か)に強烈にハマっている人は少なくない。推し活なんて呼ばれてずいぶんメジャーな存在となってきた。
100円ショップには推し活グッズコーナーが作られ、かつて"オタク"と呼ばれ蔑まれたマイナスイメージはもうない。
しかし一方で沼にハマる、沼に落ちる、などどこか仄暗さも残している。
私がこの沼に落ちてから数年が経っていた。沼の底に沈んだ金はもう数えたくもない。もっと深いところまで沈んでいく者も見たし、沼からあがって消えゆく者も見てきた。
私がいる場所は沼のどの辺りなのか。
時々ハマりすぎてはいないか、私の頭はおかしいんじゃないかと不安になる。だけど、推し活仲間を見ていると"まだ大丈夫。イカれてはいない"と自分を説得してみる。
もうとっくに太陽の光が当たらないほどの場所にいるにも関わらず、もっと深いところにいる深海魚みたいな仲間を見て変に安心するのだ。
と、ともに、まだ愛が足りないと思ったりもする。深海魚にいる者たちのようになりたい。推しにかける情熱が、そして金が足りない。私はまだ彼女たちのように全てを推しに捧げられていない。
さて、何がどうして歯を捕獲することになったのか。それは2時間前に遡る。
推しが主演のドラマは最終回を迎えていた。
ラブストーリーでは外せない、キスシーン。
リアルタイムでドラマを見ながら、SNS上では阿鼻叫喚が繰り広げられていた。
「ぎゃー!!!!」
「かっこいい!!!」
「鼻血でそう!!!」
「エロい!!!」
まるで中学生だ。
子を持つ母がしれっとした顔でドラマを見ながら、手に持ったスマホでは
「リアコしんどい……好きすぎる……」とか入力してるんだからおそろしい。
(※リアコ=リアルに恋してる)
今見終わったドラマを今度はTVerで見る。
なぜならTVerでの視聴率もタレントにとって大切な要素だからだ。
さっき見たばかりだというのに、また同じドラマを仲間たちと見る。イカれてる。
2度目のキスシーンでまた阿鼻叫喚。
そしてキスシーンについて、推し仲間と議論が始まった。テーマは【今回のキスシーンはなぜこんなにもエロいのか】
録画したキスシーンを何度も見返したり、一時停止したり、録画した画面をスクショしたり。
「手の位置がエロいんじゃないか」
「いや、首の角度だ」
と繰り広げる中で、ある者がとんでもないことを言い出した。
それは深海中の深海に住む、分析魔のゆりちゃんだ。
ゆりちゃんはこう言った。
「キスする前に、口を一瞬開けた時に左奥歯の内側の歯列が見えた。暗いと見えにくいけど、スクショして最大まで明るくするとチラッと見える。この、肉眼では見えない歯が我々の脳内に直接エロを連想させるのだ。」と。
狂ってる。イカれてる。最高だ。
これだから沼は居心地が良い。
そして件のセリフが飛び出したのだ。
「ちょっと歯、捕獲してくる!!」
沼の者たちが次々と歯を捕獲しに行った。
私は腹を抱えて笑いながら、同じように推しの左奥歯の内側の歯列を捕獲しに行った。
ドラマを流し見ていたら絶対に見落としていた、推しの歯。これに萌えられるという沼の民たちは、わずかな光でも敏感に察知する深海魚そのものだ。
まさか推しも、自分の歯でSNSが盛り上がっているとは思いもしまい。
いや、知られたくはない。推しの前では健全なファンでいたい。健全なファンというのがどんなものかは分からないが。
今日も推しはテレビの前で輝いている。
輝く白い歯で沼の底を照らしながら。
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