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多文化共生社会で茶番劇を再考する

日本語学校には授業以上に重要な務めがある。

それは、学生をきちんと学校へ来させることだ。

馬鹿みたいな話だと思うだろうか。
けれども、日本語学校における出席率というのは日本人向け教育機関におけるそれよりもかなり重要度が高い。何せ、出席率が一定の水準を下回るとビザの更新が認められず母国へと帰らされてしまうのだ。
それならそれで自己責任だと思われるかもしれないが、問題はそこで終わらない。懸念されるのは在留資格を失った外国人が失踪し、不法滞在者として国内に留まることだ。基本的に彼らは正規の経路で就業することが不可能であるため、同じような境遇にある同郷人のグループに入り、多くは違法行為によって命を繋がざるを得なくなってしまう。そもそも出席率がビザ更新の審査要件になっているのだって、留学を名目として日本への入国と不法就労を目論む「出稼ぎ」を防ぐべく、教育実態が伴わずそうした入国者の隠れ蓑になっている日本語教育機関を淘汰するという意義があるのだ。
そんなわけで、学生の出席状況が芳しくなかったり、あまつさえ不法滞在者を生んでしまったりするようでは日本語学校の側だってただでは済まない。そのため、出席率の低い学生には注意や警告を行ったり、ビザが更新できなかった学生を間違いなく帰国させるよう管理したりといった業務が発生する。

まあ、学生の方だってほとんどは帰国や不法滞在を避けたいと考える。なので本人たちも自身の出席率にはそれなりに気を配ってはおり、ビザ更新が危うくなるとされる80%を割り込むような学生はほとんど見られなくなった。
ただ、その一方で学生の遅刻や欠席も増加している。ここには皮肉な構造もあって、注意を促すために出席率を恒常的に明示するようになり、学生が却って「あとどのくらい授業を休んでも大丈夫そうか」という目安をつけやすくなった面がある。
つまり、以前はごく少数の不届き者が頻繁に学校を休んでビザ更新を危うくしていたのが、今ではそこそこ真面目な学生であってもビザ更新に影響が及ばない水準を利口に見極めて安易に学校を休むようになったということだ。

もっとも、「すぐ休む」ことが即非難の対象とされるべきかどうかには議論の余地がある。
日本では従来、少々の不調や微熱程度なら踏ん張って学校や仕事へ行くことが勤勉さの証として称揚されるような、「根性」の美徳が幅を利かせていた。そんな日本人(特に年配者)から見れば、ちょっと頭が痛いだとか疲れただとかですぐ休みたがるような若い学生の気質が軟弱に見えてしょうがないのは当然だ。
ただ、そうした考え方自体が時代にそぐわなくなってきている面はある。さらに言えば、社会全体がコロナやインフルエンザといった厄介な感染症の拡大リスクを強く意識するようになり、無理を押して登校や出社をする人が却って迷惑がられるようにもなった。このような背景を考えれば、欠席の多い学生を一概に指弾するのも不適切だろう。学校側ができることは、せいぜい体調管理への意識の甘さを注意することぐらいだ。

根性論が見直されつつある現代において怠惰さ、勤勉さ、無謀さを適切に切り分けて線引するのは結構難しい。
「熱があったとしても関係ない。這ってでも出て来い!」という教師や上司の昭和的指導はもはやパワハラ案件とみなされること必定なのだが、じゃあ本当に社運を賭けたようなプロジェクトの大詰めにあって、主要な役割を担うメンバーが安易に休むことを認める選択肢はあり得るだろうか。
もちろん、教科書的な解答は「体調の悪化が深刻になる前に休ませた方が、中長期的に見ればパフォーマンス面での損失が軽微で済む」とか、「そもそも誰かが休めば業務が回らないといった属人的な働き方が問題なのであって、どんな場合にも業務が滞らないような仕組み化をしておくべきだ」というものだろう。
けれども、物事はそんなに理想的には運ばない。仕事には納期というものがある以上、中長期的な損失や生産性を度外視してでも短期的に労働を集約すべき局面が生じるものだ。特に、起業直後の段階では「ワークライフバランス」だの何だの言っていられないというのは今でも変わらないだろう。
勉強にしてもそれは同じで、大事なテストが直近に控えているのに、準備が不十分なまま床に伏せっているわけにはいかない。少なくとも、試験の合格を最重要目標に据えているならば、長期的な学習の非効率性などを問題にしている場合ではない。これらの場合には明らかに「根性」が物を言う。
だからと言って、権力や強制力を持つ人間が「根性」を大っぴらに要求することはもはや認められない。心の底では「弱ったなあ」と困り果てていたとしても、「OK!あとは他のメンバーに任せてゆっくり休んでくれ」と言わなければならないし、実際にそれで何とかしなければならない。学校ならば、たとえば重要なテストを休んでしまうような学生がいれば、その救済措置を講じるなどしなければならない。

ただ、部下や学生がこうした言葉を額面通りに受け取ってしまえば、それはそれで不都合が生じる。多くの場合欠席や欠勤は少なからず現場に負担を与えるため、「休むこと」への心理的なハードルが下がり過ぎるのにもやはり問題があるわけで。
だから、教師や上司は表面上「お大事に」とか言いながら、心のなかでは「ふざけんじゃねえぞ、あの軟弱者」だなんて思っていないとも限らない。
実際、多くの学生や社員は上の立場にある人間のそうした苛立ちや困惑を察し取れないほど鈍感じゃない。それで、「休んでもいいよ」と言われながらも、「大丈夫です。行けます!」という頑張りを自ら見せることになる。

そうしてここに奇妙な茶番劇が成立する。

生徒や部下に休んで欲しくない教師や上司は、さりとてその思いを率直に伝えることは憚られるため、「調子が悪いなら休んで」と言う。
他方、生徒や部下としてはその言葉に甘えることが憚られるため、「大丈夫です。行きます」と言う。
結果、学校や教師は登校・出勤を「強制」もしていなければ、むしろ休むことを「奨励」しているにもかかわらず、生徒や社員が「自発的に」暗黙の期待に応えるという「理想的な」問題解決が行われることになる。これが日本における茶番の伝統的な「様式美」だ。

ただ、こうした予定調和は文化的コンテクストの共有なくしては生まれ得ない。そして、世代間に生じる価値観の変化や外国人居住者の増加といった現象は確実に日本的なコンテクストを変容させつつある。今や外国人留学生のみならず日本人学生の間にも、「合理性」を重視し「無理を押してまで学校や会社に行くものではない」という意識はある程度浸透している。
そんなわけで、「無理をしなくてもいいよ」と伝えた限りは相手が(それにもかかわらず)「自発的に」無理をすることを期待してはならないし、逆に根性を見せてほしければ最初からはっきりとそう伝えなければならない。ただ、先述した通り昭和的な根性論を感じさせる指導は現代においてパワハラとして扱われるため、まともな学校や企業であれば「甘えるな。地を這ってでも来い!」と率直に強要するのは難しいだろう。

つまり、現代社会においてはシステム上「根性」の発揮される余地が縮減される宿命にあると言って差し支えない。学校や企業は学生や従業員に「無理をするな」としか言えないし、「そう言われてわざわざ無理をするべき理由もない」と考える人も増えつつある。
では、このまま「根性」をテーマとする茶番劇は終幕を迎えることになるのか。きっと、そうはならない。
無理をすべき時に無理することを厭わない人、またそうした人々の集まる組織は間違いなく強い。それは必ずしも「無理」や「根性」が瞬間的に引き出すパフォーマンスの強度だけの問題じゃない。決定的に重要な局面で、「多少無理してでもやり遂げたい」と思えるだけの情熱やエンゲージメントを持つことができるという心身の充実、あるいはその充実感を与えられる環境の存在そのものが圧倒的な強みとなる。指導的立場にある者が「休んでいいよ」と言っている中、「かといって、本当に休んだりしたらいい顔されないだろうなあ…」と慮ってしぶしぶ「大丈夫です」と答えてしまうのと、「大丈夫です!何としてでもやらせてください!」と言えるのとでは同じ茶番でも意味が全く異なってくる。
当然ながら、ここ一番で「根性」が発揮できるような個人や組織は、そうではない者をパフォーマンスにおいて凌駕するだろう。つまり、競争の存在する社会では「根性」を軽視する側が淘汰されてしまう結果になりかねないということだ。

ただ、間違えてはならないのは、その場合「根性」は副次的な産物に過ぎないということだ。重要なのは、当人が義務感からではなく情熱や昂揚感によって突き動かされるようなエンゲージメントが前提として存在することにほかならない。それを、単に表面上の「自発性」だけをなぞって「根性」の発露を一義的に要求してしまうような指導者では問題があるし、即座に時代錯誤の烙印を押されることになるだろう。
また、いかに情熱や昂揚感に裏打ちされていたとしても、「無理」や「根性」が中長期的なパフォーマンスに与える悪影響を黙殺することは難しいし不適切である。指導的な立場にある人間は、部下や生徒のエンゲージメントを引き出しつつも、自らがそれに甘えて過剰な期待を抱いてはならない。短期的なパフォーマンスと中長期的な疲弊を天秤にかけ、必要に応じてブレーキをかけることも求められる。「大丈夫です!やらせてください!」という情熱を「駄目だ!休め。これは命令だ!」などと言って押し黙らせてしまうのもまた、茶番劇に加えられるべき重要な一幕と言えるだろう。

そう、一見回りくどいこの茶番劇にも意義はある。
結末だけ見れば予め様式化されたシナリオをなぞっているだけのように見えたとしても、そのやり取りの中では演者同士によって、互いの真剣さや間合い、空気感といったものが慎重に推し量られている。そして、その如何によって、下の立場にある者が嫌々と駆り出されたり「休めてラッキー」とほくそ笑んだりする後味の悪い物語にもなれば、無念さや昂揚によって人の心を打つような物語にもなり得る。そこに、人同士が関わり合うことの妙味がある。
確かに、絶対的な規範や指示が上意下達によって与えられ、従う者はそれ以外のことをしないという構図は明快だ。けれども、そのような関係はいかにも無味乾燥だし、ここ一番でのパフォーマンスにおいて情熱に裏打ちされた無謀さに勝利するのは難しい。
そう考えれば、日本人的であると揶揄されがちな茶番劇というものが完全に捨て去られてしまうのも何だか惜しい気がする。茶番劇の問題の本質は予定調和そのものにあるのではなく、それが上の立場にある者の権力行使を正当化するための儀式として用いられる点にあると言えよう。他方、劇中の立ち回りが下の立場にある者の情熱やエンゲージメントを引き上げるための余白として使われるのなら、それはそれで有意義なことではないか。

まあ、確かに匙加減は難しい。学生や社員が「大丈夫です」と言って無理をするのが潜在的な権力の脅威によるものなのか、純粋な熱意によるものなのかの線引きを完璧に行うのは不可能だろう。まして、文化的背景や価値観を異にする人々の間で茶番を演じようとすれば、その難しさはなおさらのことだ。
ただ、「根性」について文化的差異を強調し過ぎるのもいかがなものかとは思う。どこの国だって、成功者というのは大抵人並み以上に働き、ある程度の無理をしているものだから。

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