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理由なき反抗

思春期の頃、何度も読んだ本が2冊ある。
村上龍の『69 sixty nine』とヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だ。
『ぼくらの七日間戦争』なんかも好きだったけど、これはどちらかと言えば映画で何度も見ていた。

ある年代以上の人にはピンと来るのだろうが、若い人にはわからないかもしれない。
それは作品自体が古いというのもあるのだけど、そもそも作品のテーマそのものに共感するのが難しいんじゃないだろうか。

学校や大人への反抗。

俺が子供時代を過ごした1980年代、90年代の空気は「破壊的(破滅的)な反抗」に対する憧憬がその残り香をまだかすかに留めていたように思う。
ヒッピー現象や学生闘争など、1960年代から70年代に押し寄せた体制や秩序への抵抗の衝動は、やがて社会の壁の前に圧殺され、鎮火されていった。食べていかなければならない現実、家族を養わなければならない現実……それらが多くの若者に角材やアコースティックギターを通勤カバンへと持ち替えることを選ばせた。
それは距離を置いて見れば「ダサい」の一言に尽きる。高邁な夢や理想を散々喚き立てておきながら、それらが現実という壁にぶつかるや儚く砕けてしまうのを見て、あっさりと秩序にすり寄らんとする姿。若さゆえの反抗とは単に反抗のための空虚な反抗であって、それによって社会が良くなるわけでも何でもない。夜の校舎の窓ガラスを壊して回ったところで、誰かに迷惑をかけるばかりで世の中が何か変わるわけでもない。
『69 sixty nine』のような小説や尾崎豊の『卒業』のような歌を、家庭教師先の生徒に紹介すると、やっぱり「理解できない」という感想が返ってくる。彼女は不登校気味で勉強嫌いを公言して憚らないのだが、それでも単なる「反抗のための反抗」の衝動、そしてそれが受肉して生まれる過激な行動には「ついていけない」と思わされるのだろう。
けれども、80年代、90年代にはまだそうした衝動の残り火が若者の心には燻っていた。多くの同級生が受験や社会での成功を目指して敷かれたレールへと自ら乗り入れていく中、「金や学歴に縛られながら生きていくのは格好悪い」と突っ張り、現実に歯向かった過去の若者達のヒーローに憧れるような中高生も一定数は存在していた。
ただ、それとて結局は挫折した名もなきヒーロー達と同じような道を歩んでいくことにはなるのだけど。

俺自身も含めて。

「造反有理」のスローガンを掲げた中国の文化大革命が社会を破壊し尽くすだけで終わってしまったのとは対照的に、現代の若者による反抗はもっとスマートで、合理的で、文字通り「有理」を地で行くものが多い。闇雲に体制や秩序を攻撃するのではなく、「何を変えれば社会が良くなるか」というビジョンを明確に抱いて、既存の社会の枠組みの中から課題の解決を図ろうとする。
これは、俺が子供だった頃に散々言われたことでもある。今の社会が気に入らないのなら、社会に歯向かうのではなく社会を内部から変えていく道もあるのだと。
そうした箴言をすら、反抗への憧憬に取り憑かれてしまった俺は「大人が若者を秩序へと取り込もうとする方便」として聞くことしかできなかった。それを素直に消化し実践できる若い人達が続々と社会に現れているのは本当に敬服すべきことだし、社会全体の成熟を表しているのかなとも思う。

ただ、一方では「理由なき反抗」の愚かしいエネルギーが社会から失われつつあるのは何だか寂しくもある。
とにかく秩序というものに無条件に組み込まれていくのが嫌だった俺は、実際に物理的な反抗や破壊活動といったものには及ばなかったのだけど、世の常識や社会秩序に懐疑を投げかけ、あるいは実際に抗うことを試みた人の物語を読み、その言葉を知ろうと努めた。人によっては、現実の社会運動や政治活動に身を投じてみたり、バンド活動などでその衝動を昇華させたりしていたりもしただろう。
何かに抗おうとすれば、そこにはエネルギーが必要になる。それは意味があるかどうか、社会にとって有益かどうかはさておき、何かを学び、考え、行動するためのエネルギーが生まれることを意味する。
現代の若き変革者たちは、そうしたエネルギーを巧みに制御し社会のニーズに沿った形の活動に振り向けられている。他方、「理由なき反抗」に終始する人間が社会にもたらす肯定的な影響、社会において有用な思想や知識といったものは皆無に等しいのかもしれない。
それでも、俺たちは「何か」を手に入れた。現代社会の価値尺度に照らせば、それはガラクタに過ぎない「何か」なのだろう。けれども、ガラクタも使い方次第では有用な「何か」へと再生される可能性がある。
俺自身は様々な挫折や流転を経て、あれほど忌み嫌った「受験産業」の片棒を担ぐ一群の末席を汚す立場に落ち着いた。それでも、その中にあってやはり受験のための勉強や学歴への信奉といったものをどこか突き放して眺めているようなところがある。それは志望校合格を成功の尺度として捉えるなら理想的ではないかもしれないのだけど、生徒に多面的な価値観を持たせるという視点からは何かしら意義のあることかもしれない。
反抗心を抱いて生きた歴史は良くも悪くも消え去ることはなく、ある種の刻印として今を生きる人間のどこかに留まっているものだ。

今の俺が懸念しているのは、社会や体制に順応できない人のエネルギーの乏しさ、行き場の無さだ。
「大人に反抗する若者」というモデルが存在した頃、学校や社会が気に食わないと感じる者がしたこと、考えたことは「いかに大人を打ち負かすか」であったり、「どうやって抗議の声を社会へのメッセージに仕立てるか」といったことだった。それらはやがて現実の前に屈していく運命にはあるのだけど、「理由なき反抗」はその「敗北」という終幕までを含めてひとつの様式美を形成していたように思う。
今はそうじゃない。「勝者」の姿ばかりが喧伝されるSNS世界の膨張もあって、「敗北」は単に恥ずべきことに過ぎず、「理由なき反抗」は実を結ばない愚かな足掻きに過ぎないと捉えられてしまいがちだ。言い方を変えるなら、「勝てもしない(勝つつもりもない)くせに抗おうとするのは恥ずかしい」という意識がこの社会には満ちている。その意味で、社会課題の変革に挑んで「勝利」した若き起業家や活動家の姿は「NO」を突き付けられた社会そのものによって巧妙に取り込まれ、若い人達の反抗心を削ぐ形で利用されていると言えなくもない。
学校や社会は気に食わない、かといってSNSやテレビで褒めそやされるような「変革者」にはなれそうもない、と感じた者の行き場はどこにあるのか。それはもはや社会との隔絶、自分自身ないしは閉じたパーソナルコミュニティへの逃避と耽溺にしか残されていないのではないか。
家に引きこもってゲームや動画視聴に耽ってみたり、トー横のような「魔境」に繰り出すことで現実社会から自分自身を切り離そうと試みたり、現代の反抗者にはそうしたロールモデルしか存在しない。「理由なき反抗」を社会との関わりの中で行動に移してしまう軽挙は今や直ちに「迷惑行為」として糾弾され、まだ「少年革命家」であった時代のゆたぼんのように物理的・金銭的に必ずしも実損害を与えない活動でさえ、「社会に悪影響を与える」として嵐のような批判を浴びることになる。夜の校舎の窓ガラスを壊して回るだとか、盗んだバイクで走り出すといった歌は現代ならばSNS上で大炎上していたかもしれない。
このような時代に、社会に対して正面切って「NO」を突き付ける精神を持つことは難しい。それで反抗を諦めて自己が傷つけられない世界へと耽溺していく一方ならば、何かを変えようとするエネルギーも生まれようがない。

俺が家庭教師の仕事をしていて感じるのは、生徒たちのこうした「行き詰まった」懊悩だったりする。
家庭教師と言えば世間では「より良い学校に合格したい」という生徒をさらなる高みへと導く仕事だと思われているかもしれないが、現実にはそうでもない。もちろん、志望校合格や成績向上は本人も望んでいるのだけど、多くの場合それは単に親や社会がそう求めるからであって、自身では決して勉強が好きなわけでもなければ学歴や知識を身につけて社会に貢献したいと思っているわけでもない。だから、言われたことはそれなりにきちんとやるし教師に反抗もしないが、自分から進んで学ぼうとする意欲には物足りなさがある。まして、受験とは無関係な学習に関心を持ち、その興味を突き詰めていくことを期待するのは難しい。
まあ、それで自分を騙しつつ勉強しながらも周囲の要求に応えられているようならまだしも救いはある。問題は、抗うことを放棄してなお期待された成績や受験での成功を収められていないような場合だ。
よく俺たちは「せめて平均点ぐらいは」とか「偏差値50ぐらいの学校には」とか言うのだけど、仮に学力のレベルが正規分布していてそれが忠実に試験結果に反映されるとすれば、ざっくり見て集団の半分は平均点や偏差値50を下回ることになる。口にする側は「ちょっと頑張れば当たり前に達成できる目標」だと思うかもしれないけど、多くの人がそう思って同じ程度の努力をしていることを考えると、それは決して程度の低い目標とは言えない。つまり、「本当は勉強が嫌でたまらないけど仕方ないから最低限の努力はする」といった程度の頑張りだと、「平均点」を超えるという「最低限の目標」は達成できなくてもおかしくはないということだ。
それにもかかわらず、多くの人はそれを「失敗」とみなしてしまう。もちろん、「偏差値50」程度の学力だと誰もが名前を知っている大学などに進学するのは難しいという現実があるわけだが、問題はそこからだ。

学歴社会に順応しようとしているにもかかわらず、うまく行っていない。
じゃあ、どうするのか?

さらに努力して成績を上げる。それができるはもちろん当人にとっても、社会にとっても望ましいことかもしれない。ただ、自分自身の価値観を社会に沿わせていかなければその努力はどんどん苦しいものになるだろう。
だから、多くの人にとってこれは楽な選択じゃない。もっとも、それでもほとんどの人がこの「絵踏」を経て「大人」になっていくのではあるが。
ともあれ、直ちにそれができないのなら道は二つ。自身を苦しめる社会に抗い続けるか、それすらも諦めて閉じた環の中に自分を隔離するか。

このとき、「抗う」という選択が丸っきり認められないのは不幸なことだと思う。もちろん、「理由なき反抗」の多くは最終的に叩き潰され、多くの人はいずれ首輪をつけられる結末をたどるだろう。
ただ、反抗という行為そのものが精神的な拠り所となり、そこから何らかの行動や学習に向けてのエネルギーが得られるという側面は無視できないのではないか。
反抗の結末を知る大人達はつい、そんな「無益な行為」などしなくても済むようにと老婆心から若者たちを導きたくなるのだけど、それが却って「社会に適応するか、離脱するか」の二択を厳しく迫ることで彼らを追い詰める現状を生んでしまっている気がする。

そう考えると、「理由なき反抗」はある種のモラトリアムのあり方として、もう少しだけその意義が再評価されても良いのではないだろうか。

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