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「ショート」手のひらの恋#青ブラ文学部

恋なんてものは、始まりはドラマティックだけど終わりは、どれもありきたりなものじゃない?
どちらかが浮気して他の人を好きになるとか、両方共いつの間にか醒めているとか、そんなものでしょ、違うかしら?ちょっと長い昔の話しだけど、聞いてくれる?

介護施設のベランダで、その下に広がる海を眺めながら、車椅子に座った女性が背後の男性に話し始めた。

あの日、私は手のひらの中に新横浜行きの切符を改札の前で握り締めていたの。人混みの中で一人、立ちどまっていて、行き交う人々の邪魔になったはずよ。
迷っていたの…
行くか行かないか。
ほら、よくあるじゃない?あの時、右に曲がっていたら違った人生じゃなかったのかって話し。
多分、あの時が私のそれだったの。
私にはね、一回り以上も歳上の夫が居たの。一回り以上も上だから、とても大人に見えたし優しくて、もちろん収入も多かったわ。何の不自由もしていなかった。一緒になって十年、あの人が46歳になった時、突然倒れたの。脳梗塞ですって。それも愛人と一緒にホテルでね。
どうしたらいいのか、分からなかった。私はまだ若かったし、夫が裏切っていたなんて信じたくもなかった。病院に駆けつけた時、愛人はすまなそうに私に頭を下げて去って行ったの。
それだけよ。
そう、それだけ。酷いと思わない?
まるでポンコツになった夫は、もう用済みのように手のひらを返して行ってしまったの。

夫は一命はとりとめたけど、片麻痺が残る身体になった。言語障害もあったわね。

「頑張ってリハビリして良くなりましょうね」
元気付けたつもりの私に
「きやすめは、ゆうなぁ」
って、回らない舌で怒鳴られたの。
それでも私は諦めなかったわ。だって妻ですもの。例え裏切られていたとしてもね。
ダンディだった彼の右の口元から、いつもよだれが流れていても排泄が上手く出来なくても傍に居たの。

でも人間って、やっぱり弱いのよ。彼の友人が私の相談相手になってくれたの。 
ほら、よくある恋愛のパターンでしょ? ミイラ取りがミイラになるってヤツ。
で、出来ちゃったの、関係がね。恋をするのに時間は掛からなかったわ。あっという間に私達は、お互いを求めあうようになっていったの。
それからは、想像通りよ。
彼が動けないのをいい事に、私達は何度も何度も逢瀬を続けたの。
恋って、新しい方が新鮮だからときめくでしょ。
彼は若い頃に奥様をご病気で亡くされていたから自由がきいたのね。
夫にバレなかったかって?
バレてもいいと思ってたけど、あの人は気付いてなかったんじゃないかしら?なにしろ自分が生きるだけで精一杯だったんだから。
昼間は感情が高ぶっていて怒ってばかりいるし、夜になると今度は泣くのよ、子供みたいにね。
もうついて行けないと思った。
恋なんて、とっくに醒めて現実だけが目の前で大嵐のように吹き荒れていたみたいだったわ。
そんな時、彼の横浜支店への栄転が決まったの。
「あいつには悪いが、僕に付いて来てくれないか」
って、片道切符を一枚渡されたの。
向こうで待ってるからって。

ベッドで昼寝をしていた夫を残して、私は家を抜け出した。でも改札の前で迷ってしまったの。
どちらを選ぼうって。
右の手のひらに切符を乗せて見つめていたら、電話が掛かってきたの。夫からだった。私は左手で携帯を握っていたわ。
「ごあんはまだ?」(ご飯はまだ?)
って。
子供みたいで笑っちゃうでしょ。
あの時思ったの。この人には私しか居ないんだって。右の手のひらの上の切符を握り潰して、私は駆け出していたわ。
手のひらの上の恋を捨てたの。
それからずっと介護をして、十年前に夫を見送ったの。

ねぇ~、少し寒くなってきたから中へ入らない?

白い砂浜が夕日に染まろうとしていた。波の音だけが静かに聞こえる。

男性介護士は車椅子を押して女性を部屋へ連れ帰った。彼女を優しく介護ベッドへ横たえると右の唇から流れるよだれを舐めながらそのまま唇を奪った。
「キャッ」
小さな声を上げて女性は眼を丸くした。少女のように頬を染めた彼女に
「おやすみなさい」
と告げると男は部屋を出た。

「何を話してたのかな〜?新人くん」
先輩介護士の女性がにやにやしながら声を掛けてきた。
「それが…言語障害が酷くて何を言ってるのか、あまり分からなくて…」
「どうせまた、昔の話しね。〇〇さん、一回り以上も歳下の若いご主人に逃げられちゃったのよ。ご自分の友人に寝取られちゃったんですって」
「酷い話しですね」
「仕方ないのよ、もうその時、彼女は脳梗塞で今の状態だったんですもの」
「そうなんですか」
「でも、良かったんじゃない?此処の毎月の費用は、そのお友達がずっと払ってくれているらしいわよ」
「罪滅ぼしってやつですかね?」
「さぁね、私には恋の勝者の優越感にも思えるけど…」
そういうと先輩介護士は忙しそうに足早に去って行った。


「罪滅ぼしですよ…」
さっき交わしたキスの懐かしい感触を確かめながら、男は手のひらの上にあの日、握っていた切符が見えたような気がした。ありきたりではなかった男と女の行末は、潮騒だけしか知らない。


山根あきらさんの企画に参加させて頂きました。よろしくお願いしますm(__)m










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