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「ショート」桜色の口紅#シロクマ文芸部

桜色にほのかにパールが入った口紅を見た時、私は欲しくて欲しくて堪らない衝動にかられた。あれは確か中学生の時だった。持っていたお小遣いで足りる金額だったが。中学生だった私は、レジでその口紅を買う勇気がなかった。

きょろきょろと辺りを見渡すと店員らしき人の姿は見当たらなかった。防犯カメラも此処は死角になっているってクラスの女の子達から聞いて知っていた。
どきどきしながら、その口紅を制服のポケットにそっと入れた。そのまま足早にドラッグストアの外へ出ると後ろから肩を叩かれた。

「君さ、今ポケットに入れた物を見せてくれる?」

ドキッとして背筋が凍りついたような感覚になった。振り返ると其処にすらっと背の高い綺麗な顔立ちをした男の人が、優しい眼差しで立っていた。

「す、すみません」
私は素直にポケットから桜色の口紅を出して男の人に渡した。
「初めて、だよね?」
「はい…」
自分の顔が、みるみると盗んだ口紅と同じ桜色に染まっていくのが分かった。
「本当は、事務所に行って親御さんに来てもらうか、警察に通報しなくちゃいけないんだけど…」
その人は眉間に薄っすらと困ったようなシワを浮かべると
「君も困るだろ?親御さんに知られたら…」
今度は同情したような顔つきに変わった。
「はい…お母さんに、お母さんに知られるのだけは」
「分かるよ。僕も昔、そうだったから」
「えっ?」
「今回は見なかったことにしてあげるから、持ってお帰り」
「い、いいんですか?」
「うん、どうしても欲しかったんだろ?その代わりもう二度と万引きなんてしちゃダメだよ」
お兄さんの瞳は終始、優しいままだった。
「ありがとうございます」
私はペコリと頭を下げた。その私の頭に向かってお兄さんは、今度は囁やくように小さな声で言った。
「代わりと言ってはなんだけど、もう少し大きくなったら、僕と付き合ってくれないかな?」
「えっ」
頭を下げたまま思わず口から声が漏れた。

「あ、いや、今のは忘れて!口紅一本で君の未来を束縛するなんて代償が大き過ぎるよね」
お兄さんは慌てて、さっきの言葉を取り消した。
私は顔を上げると照れているお兄さんの眼を真っ直ぐに見つめて
「いいえ、きっと。それで、このご恩が返せるなら」
きっぱりと言いきるとお兄さんの手から口紅を受け取って走り出していた。


家に帰って、自分の部屋に入ると鏡に向かって桜色の口紅を唇に塗ってみた。
「きれい…」
鏡の中の私は、少し大人びて輝いて見えた。
「早く大人になりたい…」

「ご飯よ~、達彦。早く降りてらっしゃい」
階下で私を呼ぶ母の声がした。
急いでティッシュで桜色の唇を拭き取ると
「は〜い」
母に返事をした。



「ねぇ、朝よ。あなた起きて」
私の隣で静かに寝息を立てているあの日、「お兄さん」だった彼に声を掛けた。

「うーん…もう少し、もう少しだけ寝かせて、達彦」
「んも〜、仕方ないわね〜」

私はあの日の約束を守った。
今、私の毎日は幸せな桜色で満たされている。




小牧幸助さんの企画に参加させて頂きます。
よろしくお願いしますm(__)m









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