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家庭教師というお仕事

ひとりで家庭教師という仕事を始めて、ありがたいことにもう4年目になります。振り返ってみて、商売としてこの家庭教師というお仕事について考えてみますと、この商売はつくづく不思議なものだと思います。兼好法師の言を借りれば、家庭教師、あやしうこそものぐるほしけれ、なのであります。

その1 良いものほど売れない?

あるラジオパーソナリティの放ったトークが今も忘れられない。

「僕、こうみえてもサ、昔、国語の家庭教師やっていたんだよね。なかなか優秀でYOH、教え子の成績もグングンうなぎのぼりってわけ。我ながら、ほんと天職かな、って思っちゃうくらい。記述問題の書き方とか、選択肢の当て方とか、ほんと教えるのが上手かったのよね。」

「でも、ある日のこと。突然、『先生もう来なくていい』って言われちゃってサ。『なんで』って僕が聞き返すと『先生の教え方がうますぎて、もう自分ひとりでも解けるようになったから、先生はもう要らない。今までありがとうございました!』って。それ聞いたとき、僕もうびっくりしちゃって。ほんともう、冗談よしてYOH、だよね。」

これ、笑いごとではない。私みたいに家庭教師という仕事で生計を立てている人間にとっては死活問題である。そう、仮に家庭教師の教え方が完璧だったとして、それで、教え子の学力が開花し、そして、自分ひとりの力でも勉強できるようになったら、、、悲しいかな、その先生はもう要らなくなってしまうのだ。

生徒の学力を向上させるというのは、たしかに家庭教師に課せられた大事な任務のひとつである。しかし、上のラジオパーソナリティのように、卓越な指導力でもってそれを真に達成してしまった暁には、皮肉なことにその家庭教師はクビになり、そして、メシが食えなくなる。

つまり、理論上はこう言えてしまうのだ。教えるのが上手で生徒の知力を最大化できる、そういう意味で優秀な家庭教師ほど、売り上げが立たなくなる。逆に、教えるのは二の次で、お得意の営業スマイルで生徒や親御さんをほめそやし、生徒の思考力を生半可に飼い殺しできる、そういう意味で優秀な家庭教師ほど、どんどん儲かっていくのだ。

なんなんだ、この構造!
だから、家庭教師、あやしうこそものぐるほしけれ。

その2 子どもは大人よりも賢い?

誤解しないでいただきたい。私は、あらゆる子どもに才能があるとか、あるいは、子どもたちみんなが難関大学に合格できるポテンシャルをもっているとか、そういうどこか“美しい”塾が言いそうなキャッチコピーを受け売りしたいのではない。

そうではなく、少々意地悪な言い方になってしまうが、子どもというのは非常に狡猾な生き物なんじゃないかな、というのが私の密かに抱いている仮説である。ここでひとつ、荒唐無稽な思考実験として、純真な子ども像とは逆の、そういった悪賢い子どもについて考えてみたい。

どういうことか?前提としてまず、成績が良いのと頭が良いのとは、明確に区別しなきゃいけない。そりゃ、素直な性格で、頭も良くて、しかも親に対してもリスペクトを払っている子どもなら、成績が悪くなるはずがない。絶対。そういう場合であれば、頭の良さは駅ビルに直結している改札口のように好成績につながる。でも、反対に子どもが密かに親を憎んでいるとしたら、、、

この場合、事態はねじれはじめる。彼は、自分の頭の良さを精一杯発揮して、親に復讐しようとするだろう。すると、何が起きるのか?彼は、わざと低い成績をたたき出し、親を心底困らせたりしちゃうのだ。そして、耐えられなくなった親が歯を食いしばる。キーッ、という声が聞こえてきそうである。

もし、親が家庭教師をつけて、それに対抗してきたら?もちろん、しめたものである。勉強そっちのけで家庭教師と雑談に興じ、炭酸飲料のボトルにふたをするかのように、自分の成績を上から押さえつける。そうすると、不安に駆られた親の財布からは、湯水のようにおカネが出ていくわけだ。

お分かりいただけただろうか、これが、頭の良さノットイコール成績の良さ、という事態である。で、こういう悲劇が起きてしまうのは、結局、おカネの出し手とサービスの受け手が違うという、家庭教師というサービスが抱える独特な“やっかいさ”のせいなのである。家庭教師をやる以上、どうやってもこの“やっかいさ”から逃れることはできない。

普通のサービスだったら、例えばマッサージなどを思い浮かべてもらえばいいと思うが、おカネを払った人がサービスを受けられる。おカネをいただいたサービスの提供者は精一杯、そのお客様に報いればよい。ああ、なんて単純で分かりやすいんだ。しかし、家庭教師というサービスは、一筋縄ではいかない。購入者である親を喜ばせたところで、むなしいかな、子どもの学力とは何の関係もない。

ああ、なんとねじれた商売か!
だから、家庭教師、あやしうこそものぐるほしけれ。

その3 家庭教師は選べない?

吉野家が嫌いなら、松屋に行けばいい。
牛丼に飽きたら、カレーを頼めばいい。
チェーン店がイヤなら、町の中華屋さんに行けばよい。
外食にうんざりしたら、自炊すればよろしい。

そう、現代の資本主義社会に生きる私たちは、意識するにせよしないにせよ、日々何かを比べている。良いと思うものを買う、嫌なら買わない。そうすることで、競争原理が働き、質の悪い商品やサービスは自ずと淘汰されていく。結果、良いものだけが市場に残り、良質な商品やサービスが安く手に入る。客の立場から見た場合、市場経済は天国である。フリーダム万歳!

さて、家庭教師の場合はどうだろう?たしかに、先生が嫌なら、その先生との契約を打ち切ればよい。もし、エージェントに紹介してもらっているのなら、別の先生に代えてもらえばよい。もちろん、私たちには、食べ物の場合と同じように、先生や塾を選ぶ権利がある。(断っておくが、私は学生さんや親御さんの側のこうした選ぶ権利を否定するつもりは毛頭ない。自由に選べる権利というのはとても大事で、しっかり保証されるべきだと考えている。)

しかし、立ち止まって考えていただきたい。ある先生がいて、仮にその先生から1か月あるいは1年でもいい、何かを教わったとして、果たしてそれでその先生の価値が本当に分かるものなのだろうか?

例えば、親子関係。ありえない話だが、仮に10歳の小学生が、自分を10年間育ててくれた親のことが気に食わないとして、その親との契約を破棄!し、別の親に切り替えたりすることができるだろうか。そういう未来はいつかやって来るのかもしれないが、少なくとも今の令和ニッポンではありえない。たしかに、そのせいで、虐待などの痛ましい事件がいつまでたってもなくなることはないが、しかし、親を変えられない、というこの不自由さの中にこそ、親子関係のもつある種の豊かさが潜んでいるのではないか。

話が少々脱線してしまったが、何を言いたいかというと、1年、5年、10年、あるいはそれ以上の長い時間をかけてやっと分かる親の良さ、あるいは、人間としての価値というものが確かに存在するではないか。そして、これは、親子関係だけではなく、何かをパーソナルに教え教わる先生と生徒の間にも多少なりとも芽生えるのではないか。

親ないし先生のダメさに気付くのは簡単だが、その良さを発見するのにはどうしても時間がかる。また、たしか精神分析家のウィニコットがこんなことをいっていたと思うが、完璧な母親に育てられた子どもというのは、親の有難さに気付くことはない。なぜなら、完璧な母親は彼の欲求不満を100パーセント解決してくれるため、彼が不満を覚えることはないからだ。不満がなければ感謝もない。

同様に、よい教師というのもある意味空気みたいなもので、その良さに気付くためには、逆説的だが、一度、その先生のダメな部分も経験するか、あるいは、別のダメな先生を経験していなければならない。ちょうど、富士山に登山に行って、空気の薄い山頂付近にさしかかってはじめて、空気のありがたさが身に染みるように。

でも、人生は短い。はたして、一生で何度受験できるだろうか?多い人でも、中学受験、高校受験、大学受験と、せいぜい3回くらいしかないだろう。その数少ないチャンスの中で、悪い先生とばかり出会って、踏んだり蹴ったりの結果に終わるということもあるだろうし、逆に良い先生と出会えたとしても、卒業後になってやっとその先生の良さに思い至るということもあるだろう。

この点も親子関係とよく似ていると思う。私たちは基本、人生で1組の両親しか経験できない。SFみたいに、最初の6年は親A、次の6年は親B、最後の6年は親Cというのなら、比較もできるかもしれないが、他の両親のもとで育てられた経験がない以上、親というものを比較するのは本質的に不可能である。(表面的に比較することは可能かもしれないが…)

教育というのは、人間がやるものである以上、数学の不等号で比較できるものではない。“そういう意味”で、私は、家庭教師というものは選べるものではないと考えている。ある意味“賭ける”しかない。

ああ、なんて運任せなんだ!
最後にもう一度、家庭教師、あやしうこそものぐるほしけれ。

謝辞

だからこそ、縁あって私という家庭教師を選んでくださったご家庭に対して、私はただただ頭が下がる思いなのでございます。

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