見出し画像

僕が作家になるまで

何度か色んな機会に話していることなので、既に知っている人も随分いるかもしれないけど。

僕は中学時代いじめられていた。具体的には授業中にボクシンググローブをはめたクラスメイトに殴られるしそれを担任の先生が笑って見ているという状況だった。両親には言えなかった。僕の学校は私立で、そこに通わせ続けるため、父は東京転勤の辞令を断り会社を辞めて転職していた。
いつ殴られるかわからない状況で毎日学校に通うのも精神的に参るので、僕は時折学校をサボりながら、騙し騙し通学を続けた。半登校拒否みたいな感じで、昼過ぎから学校に行ったり、一日学校をサボって街をあてもなくぶらついたりした。自販機で煙草を買って吸い、酒も飲んでみたが、気は晴れない。僕はいじめられっ子で色白眼鏡の虚弱体質の男子学生、不良になる才能がなかった。ショッピングセンターの屋上のベンチでぼーっとしたり、ゲームセンターで下手くそなのに格ゲーをしたり、そういうのにもすぐ飽きてしまった。何もやる気になれなくて、ただ、薄らぼんやり、死にたいなと思っていた。

ある平日の昼間、僕は本屋に寄った。何か雑誌でも立ち読みしようかと思ったが、そのとき、何故か知らないが小説が平積みされているのが目に入った。僕は大して小説を読まない学生で、どちらかといえば国語より数学の方が得意だった。何の理由も考えも必然性もなく、僕はなんとなく平積みされていた小説を手に取ってページを開いた。そのまま三時間くらい立ち読みし続けて気づけば本を読み終えていた。

小林秀雄はランボーの詩集との出会いを「向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめした」と表現したが、僕にとっても本との出会いはそんな感じだった。

僕は家に帰ってからもその小説のことを考え続けた。自分の何かが変わっていく気がした。

翌日もその本屋で同じ本を最初から最後まで立ち読みした。同じ本を二度読むのも初めてだった。最初は何が書いてあるのかわからなかったところも、再読すると少しはわかるような気がした。

さらに翌日、僕はその本を買って帰った。お小遣いで本を買うのは初めてだった。それまでの自分にとって本は、大人から押しつけられる厄介な義務でしかなかった。自分の金で本を買うなんて考えられなかったのだ。

それから、同じ本を毎日読み続けた。
僕は泣いていたし、自分のことを書かれているみたいに感じた。
気づいたら、僕は小説家になりたいと思っていた。
自分もこんな風に小説を書きたいと強く憧れた。

僕はあのとき、自殺したかった。
そんな自分を救ってくれたのは小説だった。
だから、あとの人生は全部、小説への恩返しに使いたかった。
そして、自分のような十五歳の少年の心に届くような小説をいつか書けるようになりたいと思った。

小説家になるにはどうすればいいのだろう?
正直、何もわからなかった。
雲を掴むような話だ。
インターネットで調べたりした。
そのうち、どうやら新人賞というのを取れば小説家になれるらしい、というのはわかった。あるいは、人脈を作るなどしてデビューする方法もあるらしい。

小説家になる方法というのは今も昔も少し謎である。新人賞を取る、と言っても、そう簡単な話ではない。倍率を計算すれば、それが普通に選び取ることが出来るような進路ではないことくらいすぐにわかる。
小説家は良くも悪くも年齢制限がない。スポーツ選手と違い、肉体が衰えても大丈夫。容姿が衰えても問題ない。死ぬまで平等に目指すことが出来る。だからこの夢には果てがない。年齢を理由に諦めることが出来ないのは、残酷なことでもある。
何歳からでもデビュー出来る。年齢は関係ない。
でも、いつ、プロになれるかはわからない。
それが学生時代なのか、働き始めてからなのか、定年を過ぎてからなのか、わからない。
学生時代にデビュー出来て、そのまま運よく売れることが出来て、プロの小説家としてやっていけるに越したことはない。だが、そんな幸運な事例はごく稀だと知った。どんな伝説的な作家も、プロになるまで、売れるまで、苦労していることが多い。
だから、人生のどの段階でも小説家を目指すことが出来る状況でなければならない、と僕は考えた。
それから、三十歳までにプロの小説家になれなければ、職業作家として生きていくことは諦め、他に職業を持ちながら小説を書く方向性に変えようと個人的な期限を設定した。

僕は小説家のインタビューを読み漁った。読書傾向、影響を受けた作家、小説家になるまでの努力の仕方、執筆時間、進路や職業選択、そうしたものを調べた。作家になるにも色んな方法があるのだな、と思った。
これという共通点があるわけではない。
別に僕が個人的に出した結論と相反する方法で作家になったすごい人はたくさんいるので、それが正しいというわけではないと思っている。
が、僕は個人的には、なるべく本を読み、文章を書き、余暇時間を確保出来る選択を取ることにした。

そういうわけで僕は部活をやらないことにしたし学校の勉強は放棄することにした。小説を書くのにあたって無駄だと思ったからだ。それは愚かしい考えだったと後悔することになるのだが、当時の自分が出した精一杯の決断だった。昼飯を抜いて本を買い、授業中は本を読んで過ごした。

小説を書き始めた頃からいよいよ学校の成績は急降下し、学内では劣等生で授業にも真面目に出ず何を考えているかよく分からない人間ということになり、先生たちからもよく怒られていた。
僕の思考法というか人生哲学というのは、何かを得るためには何かを捨てなければいけない、というものだ。得たいものを最初に決めたら、そのために障害になるものは捨てなければならない。

ところで、小説家になるのにあたって、一番重要なことがある。
それは、小説を書くことである。
当時の僕は小説を書くことができなかった。
書き方がわからなかったし、書くための体力みたいなものがまるでなかったのだ。
書き始めてもすぐに小説は止まってしまう。後に繋がらない。
ある程度の長さの小説を書くことが出来なかった。
例えばマラソン選手になるにはそもそも42.195kmを走り切ることが出来なければならない。僕はそれが出来なかった。

僕は小説が書けなかったのだ。

僕は小説が書けないので、その代償行為として、インターネットで文章を書くことを始めた。当時はダイヤルアップの回線で、htmlを手打ちでホームページを作って発信した。それからweb2.0の時代が来て、ブログが流行り出した。僕ははてなダイアリーで文章を書き続けた。
当時のインターネット上のテキストで流行っていたのは「日記」だった。素人の人間が、面白おかしく、半ば自虐的に書く、少し笑える身辺雑記風のエッセイというのが流行っていた。それが一種のフォーマットだった。僕は特にそうしたスタイルに最初思い入れがあったわけではなかったが、インターネットで読まれたいがために、自伝的な私小説風の「日記」を書き始めた。

別に僕のそうした文章には大したスタイルやコンセプトがあったわけでもなく、大きな話題になることもなかったが、それでもそれなりに読んでくれる人は出来た。ライターや作家の人が読んでくれていて、僕はだんだんそのブログを更新することに熱中していった。
十代の頃、インターネットで文章を書くことが人生の全てだった時期があった。僕は深夜から早朝まで何かよくわからない私小説風の文章を書いて眠り、昼近くに起きて学校に遅刻して行くという日々を繰り返した。

高校生になり短編小説を何本かは完成させられるようになっていた。コンテストに応募したがどれも落選した。並行して、テレビドラマのシナリオを書いていた。村上春樹さんが作家になる前にはじめは映画脚本を書いていたし、小説を書くトレーニングになればいいと思った。そちらの方はプロの新人賞の一次選考くらいは通過したがそれ以降はダメだった。

大学生になっても小説は全然書けなかった。
その頃、元作家で筆を折った留学生の同級生と付き合い始めた。一緒にいれば何か小説を書くヒントを得ることが出来るかもしれないと思ったからだ。
僕は小説のトレーニングのために自主制作映画を撮ろうと考え、映画サークルに入った。他分野の創作活動から何かを得ることができるとも思ったし、シナリオも書きたかったし、小説を書く際のネタのストックとしても映画サークルというのは面白いかもしれないと思ったからだ。
自主制作映画を撮るには最低限の人望とコミュニケーション能力がなければならず、それまで全く人と会話せず本ばかり読んできた僕にはそれは良い度胸だめしの機会になった。全然知らない人に話しかけて映画に出てくれと頼んだりするわけだから。ほとんどナンパに近いのだ。そして無給で色んな人に映画制作を手伝ってもらって一本の作品にまとめなければならない。そのせいで最低限のコミュニケーション能力をその頃に得た。
それでサークルで何本か映画を撮ったが映画の方は全然才能がなく、周囲からも、シナリオはいいけど映像の才能がまるでないねと言われた。僕も同感だった。全く酷いものだった。それでも、自分で書いたシナリオを自分で映画にしてみることで得るものはたくさんあったとは思っているけれど。
大学生の間も小説はまるで書けなかったので、誘われて短編小説を文学フリマに出してみたりしつつ、映画の他にも、漫画を描いたりもしてみたが、それも酷い出来だった。

そうこうしているうちに就職する時期になり僕は少し悩んだ。
大学院に進学して文学研究者を目指しながらこっそり小説家を目指すか、残業が少なそうな東京の企業に就職して余暇で小説を書くか、フリーターでもやりながら小説家を目指すか。ところで、研究者になるのも非常に困難な道で、自分の能力的に、相当な本気を出して頑張らないとこれは難しい道だろうとは感じた。出版社に就職して編集者をしてみたいという気持ちがまるでなかったと言ったら嘘になるし、編集者から作家になる人もいる。しかしこれも同じく相当困難な道で、片手間でやるようなことではないし自分の能力的には難しいと感じた。
結局僕は2ちゃんねるで調べた、残業が少なく転勤がほとんどなく給料がそこそこ、という企業のランキングを上から片っ端に受けていきなんとか引っかかり、就職を決めた。アフターファイブで小説を書くつもりだった。

会社員になっても小説は書けなかった。
確かに仕事は楽で定時で帰れることも多かったが、学生時代のような時間が有り余っていた時期にすら小説を書けなかった人間が、社会人になって書けるわけもなく、僕はいよいよ停滞した。
それに何より、会社で働き始めると、小説を読んだり書いたりすることがまるで馬鹿馬鹿しいことのように感じられて辛かった。それは何の意味もない無価値なもののように時々感じられて、ページを開いても何も内容が頭に入ってこない。
文章は一行も書けなくなった。
その頃、けっこう、生きる意味を見失ったような気持ちだった。
小説が書けないなら生きている意味はないと感じているのに、小説をあまり読めないし書けない。

インターネットで文章を書くのも滞りがちになっていたが、それをわりと熱心に読んでいてくれた友人二人が自殺したことで、いよいよ書くのが虚しくなった。気づけば僕は書けなくなっていた。

25歳になった頃に絶望的な気持ちになった。
僕はまだ一度も長編小説を完成させていない。
自分は根性がない口先だけの怠惰な人間だった。
小説を書く能力がそもそもまるでない人間だった。
恥ずかしく愚かしい駄目人間だ。

会社を辞めてどうなるわけでもないが、このまま普通の社会人生活を続けたところで、自分にとってはその生活はまるで無意味だった。
もしかしたら、会社を辞めて、二十四時間、全ての時間と労力を、小説を書くことに費やせば、小説が書けるようになるかもしれない。
何の根拠もなかったが、僕にはそれくらいしかもう希望がなかった。

僕は特に会社に何の不満もなかったが、小説を書きたいという理由で退職届を提出して会社を辞めた。
あまり金は使わず節約して生活し貯金だけはしていた。いつか会社を辞めて貯金を食いつぶしながら小説を書こうと思っていたからだ。
貯金が尽きるまでは小説を書くことが出来る。
あとはもう書くだけだ。
翌日。
今でも覚えている。
さあ、小説を書こう、と思った。
朝から晩まで十五時間粘ってたった300文字しか書けなかった。
これから自分はどうなるんだろう、という絶望的な不安だけがあった。

その頃、家族とも友人とも連絡を絶って、僕は本物の孤独を手に入れていた。朝から晩まで何も考えずにただ小説を書いたが、遅々として進まなかった。それでも、半年ほどして一本小説を完成させることが出来た。
僕はやっと初めて小説を完成させることが出来た。
この小説が駄目なら死のうと思った。
新人賞に応募したその作品はわりと初期段階で落選した。

それから三年ちょっと、貯金も尽きて実家に戻った僕はニートやフリーターをしながら小説を書いて一年に一本新人賞に投稿するという冴えない日々を送っていたが、29歳になる少し前に父から「30までには家を出ていくように」と通告された。
まあ、それはそうだろう。
僕は勿論それを受け入れ、何か適当な仕事を探そうとした。出来れば再度東京に出たかったので、就活資金を貯めようと、バイトを47連勤して多少の貯金をした。就活サイトに登録してメールアドレスを開いたら編集者からメールが来ていた。今年の新人賞も出すなら一度プロットを見せて欲しいという内容だった。僕は、自分は小説家になる夢は諦めて実家を出て就職をするつもりなのでもう小説は書かないのだというメールを書いたが、送信ボタンは押せなかった。かわりに、ぜひ既に作成済みのプロットを読んで欲しい嘘を書いて返信した。
プロットを書いたことが一度もなかったのでプロットの書き方を勉強して見様見真似で送ったが全部没になった。編集者曰く、僕の小説はわかりにくいみたいだ。その新人賞の投稿の締め切りまで時間もなく、僕は半ばヤケクソで、わかりやすい恋愛小説を書くと宣言した。
その頃、十年ほど付き合ったり別れたりを繰り返しながら続いていた大学時代からの恋人に「自分より年収が上じゃないと、一千万ないと結婚なんて出来ない、でも会社員のあなたは冴えなさすぎるから、小説家で一千万じゃないと無理」と言われ、関係を一旦切られていた。それは別に自業自得で無職で偉そうなことは何も言えないが、小説で一千万、それを現実的に稼ぐとしたら、自分の能力では恋愛小説しかないだろうと直感的に思った。

僕は小説を書きながら、99%無理だろうなと思っていた。だから、これが自分が書く最後の小説になるだろうなと思った。だったら、悔いのないように、書きたいことを全部入れ込まないといけない。要するにこれは遺書だ。だから全力で書くことが出来た。一日十五時間、朝から晩まで小説を書いた。一日に四千文字は書けるようになっていた。なんとか締め切りに間に合い、小説を提出した。

その結果が出るまでの数ヶ月、フリーライターのような仕事を始めて気づいたら月に三十万ほど稼げるようになっていたが、これはいつまでも続かないだろうという気がしていた。

小説の新人賞の場合、最終選考前に電話が来るというのが一般的だと認識している。僕が応募した新人賞もそのタイプで、毎年電話がかかってくる時期というのはなんとなく定まっているという噂だった。すでに発表済みの段階では予備選考を通過し続けていた。僕はその時期、携帯電話を床に置いて、自室で電話を待っていた。バカみたいだが、三日くらい、夜になると正座して電話を待ち続けた。この週に電話がかかってこなければ、諦めて就職しようと思った。電話が鳴った。最終選考に残っていた。それからしばらくして、受賞の連絡が来た。三十歳になる直前、二十代最後の時期に僕はプロの作家になった。

授賞式では、日本を代表する作家になります、とかスピーチしたけど、まだ、全然なれていない。
好きだった恋人とは一瞬仲直りしたりもしたけど結局うまくいかなかった。お前の書くしょうもない小説を読む気はしない、と彼女から言われたことに傷ついてしまい、心が小さい僕はそれを許せなかった。
受賞作はたくさんの人に読まれ、映画にもして頂いた。それもたくさんの関係者の方々のおかげ。本当に感謝の気持ちで一杯だ。
幸せなことだが、心に穴が空いたような気分が続いた。
売れたら売れたで色々虚しいことは付きまとう。
自分はもっとこう知る人ぞ知る感じの高尚でアングラなでも読んでいると趣味が良いとされるような知的な繊細なそれでいて破天荒でもあり、なんかこう、さ、そういう、なんかそういう感じの作家になりたかったのに、全然違う感じになっているじゃないか。どういうことだ。何故こうなった。思ってたのとだいぶ違うぞ。と日々傷つきながら生きていて、鬱になったり書けなくもなったりしたけど、今は少し元気になり、最近ようやく三年ぶりに新しい本を出しました。

大体そんな感じで僕は作家になりました。才能と根性がなさ過ぎるし寄り道が過ぎるだろ、という感じです。小説を書きたいのに小説が書けなかった僕が、作家になった流れでした。小説を一度も書き上げたことがない人間が小説家になると言って会社を辞めようとしていたら普通に考えれば全力で止めてあげるべきかもしれないですが、僕はたまたまうまくいきました。そんな人間でも諦めが悪ければ作家になれるということで、何かの参考になれば幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?