五街道雲助師匠の「夜鷹そば屋」と、ごくごく私的な日記

雲助師匠の噺で特に思い入れの深いものは、聴いているだけでもう感無量になってしまって、あまり言葉に起こす気にはならないのですが。たまには文章にしようと努めてみることにします。

(2023/10/03 一部編集しました。が、まだだいぶウェット寄りな感想。)



雲助師匠の「夜鷹そば屋」

一月下席、浅草演芸ホール、夜。五街道雲助師匠の主任興行。
冬の浅草なら一度は「夜鷹そば屋」がかかるだろうと足を運んだら、運良く出会えました。個人的に、この噺はネタ出しを目指して足を運ぶのではなく、偶然出会えた、くらいがちょうど良い。
わたしにとっては、それくらい出来すぎているから。

* * *

夜鷹そば屋を営む、子のない長屋暮らしの老夫婦と、そこへ客としてやってきた若い男との奇妙な邂逅。

男は蕎麦を三杯平らげた後、自らの無銭飲食を明かし、自身番(今の交番のようなもの)に連れて行ってほしいと老夫婦に頼む。
ところが、老夫婦は自身番に連れていくどころか、自分たちの家に招き入れ、最終的に蕎麦の代金もタダにしてやるのである。
しかも、それが憐れみや施しとしてではなく、あくまでも「屋台を家まで担いでくれた対価」として渡す配慮まで行き届いている。

家に招かれた男が「俺が盗みでも働いたらどうするんだ」と言えば、金銭を持って行きやすいように紙入れの用意まで整えて、それでも全く構わないというような素振り。

いくら生活には困るほどではないとはいえ、慎ましく長屋で暮らす夫婦である。たとえ根っからの善人であったとしても、そう容易くできる行為ではない。

雲助噺に出てくる、過去を背負ったやさしい人々

ほんの少しだけれど、会話のなかに老夫婦の若い頃の話が出る。

おばあさんの話を拾えば、おじいさんは「若い頃は随分と道楽をした」ようだし、転落の一途を辿る男の身の上話に「そこから先は想像がつく」とも言ってのける。現在の暮らしぶりを見ても、ただ陽の当たる道をまっすぐ歩いてきたのではなく、あくまでも清濁併せ持った人間のよう。

雲助師匠が人情噺で演じる年嵩の男は、過去を背負っていると感じさせることが多い。あくまでも当人も通ってきた道だから、当人に道を踏み誤った経験があるから、だからこそ、他人にやさしくできる人物が多いように思う。
このおじいさんも、男の身の上話を聞いていくうちに、もしかしたら自らに重なった部分があったのかもしれない。

反対に、おばあさんはもう少し単純な造形。
おばあさんは、店に入ってきた男をひと目見たときから、若い頃のおじいさんの面影を見出して、大層気に入った様子を見せる。
おじいさんに向かって、蕎麦の盛りを多くしてやれだの、代金をただにしてやれだの、情に流されやすく後先考えずに世話を焼いてしまいそうなところが、なんとも微笑ましい。

前段で描かれる老夫婦の和やかなやりとりに、この噺全体を覆う、不思議なおかしみとあたたかさが生まれている。

救おうとしない、やさしさ

最終的に赤の他人同士が家族になるこの噺に、白々しさが漂わないのは、老夫婦の造形はもちろんのこと、このふたりが若者を「救ってやろう」とはしていないからだと思う。

後半の「ちゃん」「おっかぁ」の掛け合いは、この若者がまた道を踏み外さないように、老夫婦が当面の金をそれとなく工面してやっているのもあるだろう。一方で、雲助師匠の演じるおじいさんとおばあさんは、この疑似親子ごっこを、心の底から楽しんで遊んでいるように見える。
生涯叶わないと思っていた「ちゃん」や「おっかぁ」と呼ばれる喜び。今、このひとときを存分に楽しみたい。その裏には、望んでも子宝に恵まれなかった老夫婦の未練がある。

わたしには大した人生経験もないが、絶望の淵に陥ったとき、「救ってあげよう」と上から手を差し伸べられて、その人の手を取ろうと思えるだろうかと、この噺にかぎらず、思う。
もちろん、溺れる者は藁をもつかむという言葉もあるけれど、物質的な困窮よりも、精神的な傷が大きいとき、同じ高さには降りようともしない人のことを、果たして手放しに信用したいと思えるだろうか。

この老夫婦が、若い男と同じ高さに立っていたかなんてことはわからない。けれど、少なくとも、男のことを見下ろしてはいない。

この噺の登場人物は各々、今のままでも別に生きてはいける人たちだ。けれど、内に抱えた“欠けたもの”は埋められることがないまま、欠けたかたちのまま、生きている。そんなことを言ってしまえば、生きてる人の大半がそうなのだろうが、「夜鷹そば屋」の物語は、そんな欠けたる者同士が出会ったからこそ、成り立つ奇跡のような気がしている。

老夫婦は、決して自ら「うちの子どもにならないか?」とは言わない。そんな押しつけがましい下心はまるで存在していない。
善意の手を差し伸べるともなく、ただあるがままで、男に自ら「幸福」に手を伸ばしてもいいのだと思わせることができてしまう。最初は、「ちゃん」と呼ぶことすらできなかった男が、自分の願いを伝えることができる。
この物語のなかで、最も渇いて、諦めていた人に、自ら手を伸ばそうと思えるほどの変化が起こる。このことが何より奇跡的だなァ、と思う。

* * *

上の引用は一昨年に聴いたときの感想。雲助師匠は顔もお喋りだけど、特に目で語るものがとても大きいと勝手に思っている。

あのまなざしは持ち前のものだと思いつつ、前方で拝見できたときなどは、目に光が反映してとてもきれいなので、多少光の入る加減なども計算されていたりするのかしら? などと邪推していましたら。
知り合いの方が「ご老人ならではの潤んだ瞳」と仰っていて、ご高齢の方のまなざしがやさしく見えることが多いのは、そういう事情もあるのかな、などと妙に納得したのでありました。

しかし、あのまなざしは表現しようとして演じると、一気に嘘くさくなるんだろうなあなんて、素人なりに想像してしまう。目で語ろうと気負うと、きっとクサくなる。自然(なように)あのまなざしを出せるのは、やはり人としてある種の境地に辿りつかないと難しいと思うんだよなァ。

書いてみたはいいけど、なんだか言葉にしてしまうと、全然味気ない。自分の紡ぐ言葉の薄さに嫌気がさす。あーやだやだ。MAXやだやだになったら全編非公開に移そうかな。。

雲助師匠の人情噺を聴くと、師匠の口演でしか出会えない美しい景色が、いくつもある。「夜鷹そばや」は、その桃源郷の極致だなあなんて思っています。

わたしにとって、とても特別な噺なので、来年も再来年もまた出会えたら、嬉しい。できればネタ出しでないときに。

* * *

上演記録
浅草演芸ホール一月下席夜の部
(途中から)

蜃気楼龍玉 蔵前駕籠
林家彦いち 長島の満月
ホンキートンク
春風亭一朝 牛ほめ
柳家小菊
五街道雲助 夜鷹そば屋

20230129



この下からはごくごく私的な日記で、他人さまに読んでいただく内容ではないので、有料にしておりますー。

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