ロザリオと「芝浜」が忘れられないクリスマスイブの雲助鯉昇二人会

雲助鯉昇二人会

鈴々舎美馬 金明竹
五街道雲助 蔵前駕籠
瀧川鯉昇 へっつい幽霊
〜仲入り
鯉昇 粗忽の釘
雲助 芝浜

20221224
日本橋社会教育会館ホール

こちらのお二人会、以前もオフィス10さんの主催でやってらして、またやらないかな〜と楽しみにしておりました!クリスマスイブに、日本橋社会教育会館ホールで開催となれば、もう行かずばなるまいよ!
オフィス10さん、ありがとうございます……!

* * *

日頃落語協会ばかり聞いているわたしが鯉昇師匠のことを知ったのは、彦いち師匠と白酒師匠のトーク会「トラベルぴぃち」でご評判(?)を伺ったのがきっかけ。初めて拝見したときは「この方が噂の……!」と嬉しかったなぁ。

彦いち師匠も白酒師匠も、目上の方をめちゃくちゃいじるじゃないの!と思っていたら、鯉昇師匠ご自身の自虐ネタがさらに上をいっていて。笑 高座にお座りになった後の、あのふわふわとした間も含め、たまらないです。

今回も雲助師匠のことを「大先輩」と。
「わたしが子どもの頃にテレビで見た…ゴニョゴニョ」とか、すんごいサバを読んだりして、もう可笑しかったな。鯉昇師匠がおっしゃるから、いいんだよね。謙遜がちっとも嫌味っぽくならないの、とてもすてき。

美馬さんの金明竹、すっごく良かったー!
加賀屋佐吉さんのお使いの人の言い立て、ものすごい早口(美馬さんの早口は立板に水の超速ノンストップ!滑舌もいい!)なのに、「わて、あんさんらがわかるように言うてはりまっしゃろ?(※エセ関西弁)」とでも言いたげなのが言葉の端々から伝わってくる。
早口だけど、一つひとつの単語は流さず、それでいて話が全然通じてない事態もちゃんと成立していて、大変感心してしまいました(何様)。

鯉昇師匠は仲入り前と後で、「へっつい幽霊」と「粗忽の釘」。
「へっつい幽霊」も「粗忽の釘」も、所々のエピソードが省略されているようで、「落語協会と落語芸術協会の違いを〜」なんておっしゃっていた鯉昇師匠の言葉がするりと頭の中に漂ってくる。ふふ。

この日がクリスマスイブだったからか(多分それでだよね?)、長屋の壁にかけるのは、釘ではなく、ロザリオ。そう、ロザリオ。それも、恰幅が良い伯母さんの、形見のロザリオ。情報が多い。

わたしの記憶違いじゃなければ、横幅が五尺ばかりの伯母さん(?)っておっしゃってた気がするんですけど、、、待って待って? その「ロザリオ」とは、もしや首にかけるものではなくて、教会にかけられているキリスト像のことなのかい??そうなのかい??!という感じで、勝手にツボにハマっておりました。結局、どっちだったんだろう。笑
いつか釘バージョンも聴いてみたい。

雲助師匠は「蔵前駕籠」と「芝浜」。
まさかここで「芝浜」に出会えるとは……!「芝浜」については別の記事にも残しておきたいので、ここでは軽めに(でも長くなっちゃった)。

ご商売をやっていたという師匠のお家の話から、師匠にとっての大晦日からお正月にかけての原風景をたどりながら入っていく「芝浜」。
現代ではあまり残っていない風習も、師匠ご自身の体験があって語られるからなのか、想像のなかの江戸の風景がぐんぐん広がっていく感覚がある。

嫌々出かける勝つぁんの草履の紐を結ぶしぐさ。河岸に向かうときにツンと身に染みる風の冷たさ。海の向こうが夜から朝に変わる気配。拝んだ朝日の眩しさ。そうした情景描写が最後まで途切れない。
冒頭だけでなく、3年後の場面でも、そう。
お正月の笹竹の葉のこすれる音。こぼれ落ちてきそうなほど満天の星空。外から帰ってきた勝つぁんが、年末の喧騒がすでに落ち着いた大晦日の夜の、しんとした風景を届けてくれる。なんて目まぐるしくて、美しい。

雲助師匠の「芝浜」は、本当に夢のような世界だなと思う。情景の美しさも、おかみさんの人物造形も。
勝つぁんが出かけるときに、おかみさんが火打ち石で切り火を切ってくれるのは、実際に雲助師匠が内弟子の時分に、先代の馬生師匠のお宅で見てきた風景なのだろうなと思う。
にこにこと酒を注ぐおかみさんの幸せそうな表情を見ていると、この人はもしかしたら馬生師匠のおかみさんがモデルだったりするのかな?なんて、ふと野暮なことに想像を巡らせてしまう。

「芝浜」を特別な美談のように語られるのはあまり好きではない。けど、雲助師匠版は、物語そのものが本当に「夢」のよう。
細かい描写はあくまでもリアルなのに、観ているこちらまで何かふわふわと浮遊してくるような、そんな感覚がある。白昼夢を見ていたのではないかと思うくらい、緞帳が下りてもまだ、ふわふわとした感覚が残っていた。

細かい話なのだが、この日、「あっ、いいな」と思ったことがあって。
3年後の大晦日のやりとりでの「今日出前を取るのも可哀想だろう」という勝つぁんの台詞。

大晦日に遅くまで相手に仕事をさせてしまうことへの気配り。昔の人が当たり前のようにやる、先にいる相手への見えない配慮がすてきだな、と思う。たとえそれが商売だろうが、その人の仕事だろうが、相手がしてくれることへの「済まないね、ありがとうね」があって。

手前味噌だけど、わたしの祖母も、そういう気遣いが細かい人だった。だれかになにかお願いするときはいつも、相手が気持ちよく働いてくれるように、気をまわす人だった。きっと面と向かって確認はとっていないだろう(し、とったところで商売上では誰も本音なんて話さない)から、「いやいや稼ぎどきなんですから!変な気まわさないでくださいよ!」なんてことも、もしかしたらあったのかもしれないけど。

今は、大晦日だろうが正月だろうが働きたい稼ぎたいという人もいるかもしれないし、世間がお休みだからこそ働かざるを得ない人ももちろんいらっしゃると思うので、昔の人のこうした気遣いが活きるのは、時代的なおおらかさもあったのだろうな。

そんなこんなで、ふと祖母のことが思い出されて懐かしくなってしまった。
そして、子どものときは大晦日もお家が商売で忙しく、ひとりで過ごすことが多かったという"恒夫"少年のことも思い起こされて、「大晦日くらい、みんな休んだらいいじゃないか」なんて思うときもあったのかな? と、妙なところで勝手な妄想を膨らませるのであった。

* * *

「芝浜」については、先日今松師匠のものも聴いてきたので、一緒にまとめたいと思っております。年内に公開できるかなー。

【追記】書きました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?