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生きていてもいいですか、ワトソン君

ネットワークの接続環境が悪い。安い無線LANルーターはやはりいけません。気まぐれでいつ切断するかわからない。いちいち機器のご機嫌をうかがっている様で、嫌になる。馬鹿らしい。以前はパソコンを開くのが大層楽しみだったのに、最近では苦痛になってきた。そのうえ職業野球のペナントレースもいよいよ面白くなってきたから、緻密にものを考えたり、真剣に書かれた深遠なる論考を精読することが、前よりずっと少なくなった。ただでさえ頭が酒漬けでだらしないのに。しょうがない。ライフワークの主題からもいずれ見放されそうで不安だ。しかるに今日もおめおめと生きております。中島みゆきと一緒になって「生きていてもいいですか」と問いかけたくなる日も多い。

ところで、長田弘の語るところでは、「おめおめと」と言うのは、「きれいごとを口にしないこと、みずから疑うということ」だそうです(『詩人であること』岩波書店)。彼は、「戦後を生きのびた人々」のなかに、きれいごとをあてにしない日常を見出す。人は、きれいごと、をほとんど息をするように吐く。きれいごと、くらい神経を微妙に逆撫でするものはないが、それでも人は、きれいごと、を口にし続ける。あの人のぶんまでしっかり生きよう、だとか、お金より大事なものが人生にはある、だとか、生きているからこそ苦しみもある人間だもの、だとか、そんな空疎な常套句を我勝ちに言いたがる。「公共的言説」においては特にそれが著しい。みんな良い子ぶるのに必死。

きれいごと、は、「心の余裕(あるいは鈍感さ」の表れでもあるから、きれいごと、が盛んに放たれる世の中はたぶん物質的にはそれほど窮迫していないのだろうし、死の危険にのべつ晒される修羅場でもないだろう。功利主義的観点から見ずとも、それはそれで結構この上ないことなのだ。政治権力にいきなり死んでこいと命令されるようなグロ注意的世界に比べれば、いわゆる「平和ボケ」で死んだ魚のような眼の若者がのそのそ無為徒食に生きている世界のほうが数千億倍ましだ。たしか内田樹氏もそんなふうなことをどこかで書いていました。「働かない若者は自衛隊にでも入れて精神を鍛えなおせばいい」みたいな疑似マッチョ的放言が幅を利かせそうな時代にこれからなりかねないのだけど、そうした発想そのものが「平和ボケ」の最たる徴候なのだといい加減気づかせてあげよう。最近多くありませんか、そんな慨世気取りの国防爺さん。いや何も爺さんとは限らないけど。とりあえず戦争なめんなよ。

野球の成行きにいちいち愚痴を垂れながら酒ばかり飲んでいられる世の中は実に素晴らしい。日本に限ってみれば、飢えて死にそうになってもスーパーマーケットに行けばいくらでも良質の食い物があるから、「法」を犯せば生命だけは保てる。水は公衆便所で足りる。寝る場所は日本中に有り余っている空き家でいい。というよりそもそも食うのに真実困ったなら「国や自治体」が助けてくれる制度がきちんとある。後ろ指なんか気にしなくていい。もし知人も家族も政府も誰も助けてくれないのなら、いっそ山賊もしくはナラズモノにでもなって周囲にめちゃくちゃな迷惑かけてやればいいのだ。みんな道連れでこの世を地獄にしてやろう。一人の飢えた人間を見殺しに出来るそんな糞みたいな世界は踏み荒らされるに値する。そうだろう?

考えてみると、飢え死ぬことが極めて難しいこの国は、人類の「理想」に近いところにあるのかもしれない。あるいは見方をかえれば、この程度が「ユートピア」の限界といえるのかもしれない。あまり「現世」に高望みしないように。けれども絶望もほどほどにしないといけない。絶望の素振りはナルシシズムを刺激しすぎる。中毒になる。

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