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ポスト「ググってもカス」時代における図書館

グーグルの「劣化」についてはこれまでさんざん語られて来た。グーグルについての苦言など、なにをいまさらという感じだろう。グーグルの検索エンジンのこの数年の収益化傾向はもう眼に余る。あるいはもともとその程度のものだったのかも知れない。そのへんのことは長年のネットウォッチャーじゃないから素人の分際をわきまえて突っ込んだ分析は控えよう。ネット情報はよく「玉石混淆」の喩えで表現されるけど、もちろん「玉」に対し「石」のほうが圧倒的に多い。「玉」と「石」の見分けのつかないほとんどの情報弱者あるいは無教養人にとって、グーグル検索は人間愚劣化装置以外ではない。ググって「偏見」や「ヘイト感情」がより増幅され、もっとカスになる。SNSで主義主張を叫びまくるだけで「政治に参加している気」になってしまえるような猛者もいる。人は自分が思っている以上に、信じたいものしか信じない(「無暴力」という理想にこだわっている私だってそうだ)。
現在よほど検索方法に気を使わない限り、検索上位に表示されるのはどこかの糞ライターが小銭稼ぎの目的で書き上げたアフィリエイトサイトばかりだ。それでも検索下位のほうに「まともなサイト」があればまだ救われるのだけどほとんどないんだなこれが。「誰もがアクセスしやすいサイトはクズばかり」になりつつある。さかのぼれば、アメリカの大学や研究機関の間で発展した(後にインターネッと呼ばれることになる)オープンシステムに関わっていた人々は、きわめて「知的」だったはずだ。それがいつのまにか大衆化し、嘘も事実もごたまぜのカオス的情報空間となってしまったのだ。果たして功と罪、どちらが上回っているだろう(なんて通俗的な問い掛けなんだろう)。その判定は先送りすべきか。

いつからか、SEOだかYMOだか知らないが、ウェブサイトを検索サイトに適応させる技術がことさらに喧伝され、いわゆる「いかかでしたか系サイト」と総称されるようなウジムシ的リライトコンテンツが乱立し幅を利かせるようになった(検索すれば腐るほどあるがあえて例をあげると、「2022年耳栓のおすすめ人気ランキング38」とか「ラインで男の心理を見抜く方法」といったような、ろくに調べもしないでアマゾンなどの「人気商品」を適当に並べたり、「人間心理」の講釈をはじめるようなもの)。
また、あるカタカナの一般名詞の意味を「素朴」に検索すれば、糞どうでもいいサブカル系のキャラクターやアイドルグループの固有名詞が上位に出たりして、「グーグルよ、それは違うだろう」としばらく苛立ちが静まらないことになる。いやもうこんな没理想の検索エンジンになど何も期待してないからいいんだけど。ある言葉の「一般的な意味」を調べるときは、たとえば「シェヘラザード コトバンク」という具合に、信頼しているウェブサイトと関連付けて検索する。
画像検索でも、ギャルゲーやマイナーアニメなんかの画像を眼に入れたくないなら、それなりの検索技法を習得しないといけない。そういうこともろくにしないで「グーグル検索は劣化した」なんて愚痴ばかりこぼしているようでは、自分の知性も劣化してしまいますぞ(私などもうすでにガタが来て久しいのにこれ以上劣化したくありません)。

話は変りますが、なんだかんだ言って「規則正しい生活」というのは「精神の健康」に益するのではないか。このごろしきりにそう思う。それが初等教育や家庭教育による「刷り込み」であるにせよなんにせよ、夕方に起床して夜間ノソノソしているような生活には「潤い」が乏しい。「反自然な罪責感」を抱かされてしまう。定刻起床の難しさについてはもはや贅言を必要としない。人によっては「苦痛」でさえある。眠たいのに床を離れるのは不健康なんじゃないかと思える。しかしそれでも私は、定刻起床が人間の生活快適度を増大させうるような気がしてならない。いわゆる概日リズム(サーカディアンリズム)を形成するリズムにも「個人差」があって、それゆえ起床時間ならびに就寝時間がずれてくるのも当然であるにせよ、たしょう無理してでも日々の生活リズムを揃えたほうがいい。「たしょうの無理」は人間の自尊心を保護する上で有益なんだ。たかが起床時間のことで「俺はなんて自堕落な人間なんだ」と自己嫌悪の沼に足をすくわれるより、「まいにち朝七時に朝日を浴びて起床してる俺ってカッケー」と根拠薄弱な自信をみなぎらせるほうがいいに決まっている。「何をするにも早すぎるし何をするにも遅すぎる」(サルトル『嘔吐』)ような午後三時ごろに目を覚まし「朝食」を食べ散歩に出かけたとして、そこに広がっているのは部活動帰りの充実した中学生高校生体たちであり、仕事帰りのくたびれたビジネスマンである。よほど超然とした自我に恵まれない限り、それだけで絶望的な気分になるのではないか。

私の場合、図書館で平均五時間ほど本を熟読するのが日課だから、図書館の開館時間に嫌でも体を合わせないといけない。書き物もしたいし、翻訳もしたいし、雨でなければ二時間近くの散歩も欠かせない。いつも泳いでいないと窒息死してしまう回遊魚のように、人間も日々なにかしらの「雑事」に注意を向け続けていないと虚無死してしまう。そもそも「生き物」が存在している根本理由などないわけだからね。おそらく世の気忙しい凡人どもは「自分はなぜ存在し生きているのか」なんて七面倒臭いことをおのれに問うたことはなく、それゆえそのことをろくに考えたこともないだろうけど。私は凡人だけど学童期からこの種の虚しさを意識しないではいられなかった(私の「ゆがんだ選民意識」はそのせいだ)。いまだにこの「存在論的な虚しさ」を重く引きずっている。時間的真空つまり「暇」さえあれば動画を見、活字を読み、音楽を聴く。「情報」の流入によって虚しさの空間を満たそうと努めている。およそ「好奇心」「追憶」「希望」なんてものはこうした虚しさへの防衛機制の発動だろう。「でしかない」なんて言い方をすると私が人間の心的現象すべてを過小評価しているふうだけど、「でしかない」ような何かのなかに没入できる人間たちこのごろは興味が尽きず、愛おしくさえ感じている。人はカワイイーーーーカワイイものですねーー、と美空ひばりも歌っている。

じゃあな、凡人ども。

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