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与那原恵と新崎盛暉(つまらないから読まなくていいよ)

そんな私なので、ってどんな私なんだか?いや、南方熊楠になった体(てい)ていう流れでね。
さて最近の読書、与那原恵「帰る家もなく」に納められた台湾漁民のルポ編が面白かった。「台湾、記憶の島で」と「成功鎮(漁港の名前)の風に吹かれて」だ。彼女は自分の母親のルーツを辿って台湾を旅するのだが、そのうちに成功鎮という漁港のある町を知る。するとこの町には戦前日本の統治の下で漁業を近代化させ戦後へとつなげて行った歴史がある事がわかる、という話なのだが、大切なことは人々の生活にとっては国境は余り意味をなさないと言うことだ。戦後もしばらくは、ヤマトの人、沖縄の人、漢民族、台湾先住民、皆が一つになって漁法を会得し、チームをつくり、漁労コミュニティを作り、漁業を発展させてきたことこそがこの町にあった特徴だそうなのである。
与那原恵のルボを少し離れて発展的に考えてみる。
経済発展をとげた戦後の日本で生まれて育った我々には、対岸の火事よろしく、痛みとして実感できなかっただろうが、日本海や東シナ海の対岸では1990年代あたりまで厳しい社会が存在していて、つまり政府による激しい白色テロルの横行した台湾だったり、国内で同じ民族同士の戦争があった韓国だったり。そしてそこから生まれた強いナショナリズムが島の領有権を国同士で争うことになったといえる。その一方で与那原が伝えてくれている、多民族漁業が台湾東方、南西諸島海域で続けられていたという事実にも注目したい。
話が変わるが私の尊敬する学者のひとりで、この三月末、唐旅に行かれた新崎盛暉さんの講演を聞いたことがある。尖閣諸島の国有化に対する私見としてお話しされていたのを、不意に思い出した。
先生いわく「沖縄、先島諸島、尖閣、またその海域は政治的領土領有権とはまた違う「生活圏(権)」というくくりがあって良いのではないか、150年前まではそうしてきたのではなかったか、沖縄は政治的軍事的ではなく東アジアの生活圏の中で、経済的キーストーンkeystoneとなって行くべきなのだ。」今でもしっかり覚えている師の言葉だ。

与那原恵のルボを読んで、この成功鎮と言う漁村で、厳しい政治体制民族の下、漁業の近代化とその伝承があったことをまず知った。次にその海域で粛々と育まれてきた人々の生活を生活圏と言う枠でしめし、沖縄を中心として新たに構築するべきだと諭した新崎先生の話を思い出した。すると私の頭の中でだけれど二人の話が何となくつながってくる。そうしてそのあとで、知恵泉「南方熊楠」を見て、うーん、と唸りながら私は考えてみた。
この台湾東域で政治体制という外界からの影響をうけながら、漁労が多民族による独自の発展をしていたことと、そして与那原と新崎、全然別世界のお二人が同じ海域の独特な生活に着目していたことに、大きな意味を感じたのである。

これぞ南方熊楠の発想!!!
私は南方になれるだろうか(笑)