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天皇陛下から「頼む」と言われて総理になった男・鈴木貫太郎

毎年8月15日は「終戦記念日」です。
西暦1937年(昭和12年)当時の日本は、中華民国(現:台湾)と戦争を開始(日中戦争)し、さらに1941年(昭和16年)にはイギリス・アメリカ連合軍と戦争(太平洋戦争)を開始しました。

この二つの戦争を総じて「大東亜戦争」と言います。

1945年(昭和20年)8月15日、天皇陛下(昭和天皇)が初めてその肉声を放送電波に乗せた「玉音放送」が行われ、日本全国民に大東亜戦争終結ポツダム宣言受諾が表明されました。

これを以って、日中戦争から通算8年に及ぶ戦争は終結しましたが、法的な終戦の日は同年9月2日、東京湾上のアメリカ海軍所属・戦艦ミズーリの甲板上において、重光葵(政府代表:東久邇内閣の外務大臣)梅津美治郎(大本営代表:大日本帝国陸軍参謀総長)が降伏に署名した日になります。

このタイミングで終戦を迎えられたのは、一人の男を中心とした当時の政治家たちの策略の結果であります。その男の名前は「鈴木貫太郎」といいました。

開戦から1944年頃までの状況

当時の日本は、共産国家のロシアの南下を防ぐことを目的に中国大陸に進出して満州国を建国し、中華民国と対立していました。これが諸外国との間に軋轢を産み、特にアメリカは対日資産を凍結して、原油の輸出を停止しました。日本と中華民国は小競り合いの果てに上海事変が勃発し、宣戦布告なしで全面戦争に発展し、日本とアメリカは外交レベルでの交渉を続けていましたが、決裂してこちらも戦争の道を進むことになります。

1941年(昭和十六年)12月8日、真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争(日本とアメリカとの戦争)は、開始して半年程は日本が優位に戦争を進め、アメリカやヨーロッパの植民地だった南方(東南アジア)をほぼ支配下に置き、石油などの資源の確保などに成功します。

しかし翌1942年(昭和十七年)6月のミッドウェイ海戦で、日本海軍は空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)多数の航空機約3,000の将兵を失い、初の大敗北となります。その後、ソロモン海域や南太平洋海域に置いて日米は一進一退を繰り返しますが、戦況は徐々に日本側に不利になり、ついに1943年(昭和十八年)2月、ガダルカナル島(西太平洋ソロモン諸島)から撤退。

同年4月には、大日本帝国海軍連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将が戦死。

1944年(昭和19年)2月、アメリカ機動艦隊がトラック島(現:ミクロネシア連邦のチューク州の一部)を襲撃。備蓄燃料タンク3基分(約約1.7万トン)と各種軍需物資75%を損失。約7000人の戦死者を出し、太平洋戦域最大の日本海軍基地が無力化されました。それに次いで数ヶ月後の同年6月のマリアナ沖(マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖)海戦で日本海軍は敗北。太平洋の制海権と制空権を喪失。やがて日本本土が無差別空襲に晒されることになるのです。

東條英機内閣

日米開戦は東條英機内閣によって開始されました。しかし、前述のミッドウェイ海戦やガナルカナル島の撤退、そしてトラック島急襲による太平洋地域における海軍基地の喪失などが東條内閣への風当たりに繋がっていきました。

東條は、国務と陸海軍統帥を一元管理するため、1944年(昭和十九年)2月、首相(行政責任者)、陸軍大臣(大日本帝国陸軍責任者)、参謀総長(大日本帝国陸海軍軍令部責任者)の三職を兼任し、その指導力を以って戦局の打開を打ち出しましたが、これが天皇陛下の統帥権を侵すものとして、軍はもちろん、皇族からも批判を受けるようになります。

しかし戦局の悪化は止まらず、マリアナ沖海戦の敗北による制海権、制空権喪失が、近衛文麿(元首相)岡田啓介(元首相)などの反東條内閣のグループの活動を刺激することに繋がり、同年7月18日、東條内閣は総辞職しました。

後継内閣の迷走

東條内閣総辞職は、近衛、岡田だけでなく、木戸幸一内大臣(天皇輔弼/宮中事務統括)も一役関わっており、謀略的な「東條引きずり降ろし」の結果でした。

ただ、彼らは後任のことをマトモに考えていませんでした。つまりポスト東條も決めずに内閣を倒すことだけに一生懸命になっていたわけです。

この時、次の首相を選出する重臣会議のメンツは以下の通りでした。

若槻 礼次郎(第25・28代内閣総理大臣)
岡田 啓介(第31代内閣総理大臣)
廣田 弘毅(第32代内閣総理大臣)
近衛 文麿(第34・38・39代内閣総理大臣)
阿部 信行(第36代内閣総理大臣)
米内 光政(第37代内閣総理大臣)
原 嘉道(枢密院議長)
木戸 幸一(内大臣)


戦争状態の内閣総理大臣に求められる第一の素質は、軍を統率できる人材であることでした。よって過去に陸軍大将に任じられた人間から選抜が行われました。

東條は、自身の後任に畑俊六(元陸軍大臣)を推挙していましたが、畑は当時支那派遣軍総司令官で前線に出ていて、現実的ではありませんでした。また、東條が推薦する人材を近衛や岡田が了承するはずもありません。

次に候補に挙がったのは寺内寿一(第18代内閣総理大臣・寺内正毅の長男)元帥でしたが、彼も南方軍総司令官で前線に出ていました。そこで第2候補(つまり予備)として挙げられたのが朝鮮総督の小磯國昭でした。

しかし、小磯は閣僚経験が浅く(拓務大臣2回のみ)、政府内に政治基盤もないため、その指導力不足を懸念されていました。そこで近衛が裏から手を回し、小磯を推薦した一人である米内光政を担ぎ出し、天皇陛下より小磯と米内2名に組閣の大命を下すように工作しました(この時の内閣は、今と違って天皇陛下の大命を受けて組閣するのがルール)。この時、組閣された小磯内閣には岡田の画策で米内が海軍大臣として入閣しています。

小磯内閣組閣後の戦局は次の通りでした。

1944年8月:テニアン島(北マリアナ諸島)、グアム島が連合軍に占領。
※アメリカ軍は日本軍基地を改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始。日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃可能圏内に入る

同年10月:レイテ島での戦い。日本軍79,000人の戦死者を出し、日本海軍は壊滅的打撃を受け、組織的な作戦行動が不能に。連合軍は沖縄大空襲を実施。

同年11月:日本本土の空爆が開始される。中島飛行機や石油工場が標的にされ、日本国内における軍事資源が喪失。

1945年1月:連合軍、ルソン島に上陸。

同年2月:硫黄島(東京都小笠原村)の戦い。

同年3月:マニラの戦い。連合軍がフィリピンを完全占領。南方から日本への資源輸送の安全確保が不可能となり、資源補給の道が絶たれる。

同年同月:硫黄島が陥落。

同年同月:東京大空襲

この状況の中、もはや戦局の打開は誰にも不可能でした。
また近衛が予測した通り内閣の判断、決断が遅々として遅く、ついに1945年3月、日本固有領土である沖縄へのアメリカ軍の上陸を許してしまいます。これが決定打となり、小磯内閣は在任期間わずか9ヶ月で総辞職せざる得ませんでした。

誠に信じられないことではありますが、戦争中でしかも敗戦必至のこの段階で、日本は政治的に完全にアンコントローラブルに陥っていました。

鈴木貫太郎内閣の誕生

1945年4月、内大臣木戸幸一は重臣会議を招集し、後継総理を選ぶべく以下の人間が集められました。

若槻 礼次郎(第25・28代内閣総理大臣)
岡田 啓介(第31代内閣総理大臣)
広田 弘毅(第32代内閣総理大臣)
近衛 文磨(第34・38・39代内閣総理大臣)
平沼 騏一郎(第35代内閣総理大臣)
東條 英機(第40代内閣総理大臣)
鈴木 貫太郎(枢密院議長)
木戸 幸一(内大臣)

※「枢密院」とは戦前の日本にあった天皇陛下の諮問機関(意見を求める有識者会議)です。

この会議において、若槻、近衛、岡田、平沼の4人は、後継総理に枢密院議長であり元侍従長だった鈴木貫太郎を挙げました。

しかし元海軍大将である鈴木貫太郎は元々「軍人が政治にかかわるべきではない」という考えを持論として持っており、

「とんでもない話だ!断固としてお断りだ!」

と烈火の如く怒ってこれを否定しました。

ですが、「重臣会議」は建前上、内大臣が招集した形になっていますが、実際はその前にすでに根回しが出来上がっているのが常であり、この時も、すでにそうなっていたのです。

つまり先の4名だけでなく、内大臣の木戸も鈴木支持に回っていたことになります。しかしながら、この流れに東條だけは反対を示しました。

東條は今の戦局は小磯内閣の指導に陸海軍が従わなかったことが原因と見ていました。小磯は確かに陸軍大将でしたが組閣時は退役していて身分は予備役であり、また、内閣総理大臣であっても陸軍大臣を兼ねていなかったため、軍は小磯の言うことを聞いていませんでした。東條はこの事実から、海軍出身である鈴木が総理になれば、陸軍が従わない可能性があると考えたのです。

しかし、岡田が

「畏れ多くも天皇陛下の大命にしたがって組閣をする総理に対し、そっぽをむくとは何事か!。陸軍がそんなことだから、戦いがうまくいくはずがないのだ!」

と怒鳴りつけたため、東條は黙り込んでしまい、重臣会議は全員一致で鈴木を首相とすることに決しました。

呆れたのは当の鈴木自身です。
本人の知らぬところであれよあれよと決まってしまったものですから、さあ大変です。

内大臣の木戸が天皇陛下に重臣会議の結果を奏上すると、陛下は鈴木を呼び出し、鈴木に対して「組閣の大命」を下しました。しかし、鈴木は

「誠に畏れ多いことでございます。私は海軍の出身であります。軍人が国政を預かることは決して宜しからずと存じます。何卒ご容赦くださいませ。何卒、何卒......」

と、繰り返し固辞します。
しかし、天皇陛下は「鈴木よ」と声をかけられ、

「おまえの言いたい事もおまえの気持ちもよくわかる。だが、戦争の激化しているこの重大な局面において、もう他に人はいないのだ」

と鈴木を諭すように言った上で

「だから鈴木よ、どうか、頼むから、組閣の大命を引き受けてくれ」

と言葉を続けられました。
これに加え、天皇陛下の母である貞明皇太后(大正天皇の皇后)からもお願いされ、鈴木は自らの主義とワガママを通せなくなり、ついに組閣の大命を拝受することになります。

1945年4月7日、鈴木内閣組閣。
ちなみに2021年現在、満77歳2ヶ月での内閣総理大臣就任は、日本の内閣総理大臣の就任最高齢の記録です。

終戦工作に着手

1885年12月22日に伊藤博文が大日本帝国の初代内閣総理大臣に就任して以来、現在に至るまで、天皇陛下から「どうか頼む」と言われて就任した首相は鈴木貫太郎の他にはいないでしょう。

そして天皇が鈴木に望んだことはただ1つ

「大日本帝国陸海軍や帝国臣民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」

この一点だけでした。
その意向に応えるべく、鈴木は77歳の老体に鞭打って不眠不休で終戦工作に奔走します。

鈴木内閣が発足した月の月末(1945年4月30日)、ドイツの首都ベルリンナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが自殺。翌5月8日にはドイツ軍が無条件降伏しました。これにより1943年に連合国に降伏したイタリアとドイツと日本による日独伊三国軍事同盟は失効、日本は戦略的に完全に孤立しました。

鈴木は国内における徹底抗戦の機運をいかに制御し、和平に持っていくかに注力するため、外交に関しては鈴木内閣の外務大臣である東郷茂徳(日米開戦時の外務大臣)に一任していました。東郷はドイツの敗北必至の状況はすでに承知の上で、和平の仲介役に日ソ中立条約の相手国であるソビエト連邦(現:ロシア連邦)を考えていました。

また、この頃、内大臣木戸幸一は、重光葵(前外務大臣)と共同で和平方針案の「木戸試案」を作成。同年6月9日、木戸は天皇陛下に試案を上申し、天皇陛下の意向を確認すると、鈴木内閣の内外におけるロビー活動を行なっています。

この結果、本土での徹底抗戦を主張する主要な政治家は少し減りはじめ、また米内光政(鈴木内閣海軍大臣)のように公然と木戸試案を支持する軍人も出始めました。

この頃になると国家の主要人物が「それぞれの思い描いた終戦」に向けて活動を開始していたのです。

6月22日、天皇陛下臨席での最高戦争指導会議構成員会合(総理、外相・陸相、海相、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長のみで構成される会議)で、ソビエト連邦に和平交渉を託す方針が決定。7月に近衛文麿を特使としてモスクワに派遣しましたが、ソビエト連邦側は近々行われるポツダム会談の準備を理由に返事を引き伸ばしました。

そして7月26日、チャーチル(イギリス首相)、トルーマン(アメリカ合衆国大統領)、蒋介石(中華民国主席)の名において大日本帝国に対して発された、全13か条から成る無条件降伏要求宣言(いわゆるポツダム宣言)が発せられることになります。

東郷はこの宣言にソビエト連邦が加わっていないことから、内閣としての返答はソビエト連邦の意思を確認してから行うべきと主張し、これを受けた鈴木は宣言については黙殺(ノーコメント)することを閣議決定しました。しかしこれが海外には「reject(拒否)」として報道されてしまいます(これはのちに鈴木本人によって大きな後悔になっていきます)。

同年8月6日、広島県広島市に原子爆弾(リトルボーイ)が落とされ甚大なる被害を受け、9日にはソビエト連邦が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告。同日、長崎県長崎市に再び原子爆弾(ファットマン)が落とされ、広島同様に甚大なる被害を受けました。

ソビエトの意向を確認するまで黙殺という鈴木内閣の外交による和平交渉は、ソビエト連邦の宣戦布告で失敗に終わり、原子爆弾の甚大なる被害は、連合軍の現時点での保有戦力が段違いであることを見せつけるのに十分でした。

日本にはもうポツダム宣言を受諾するか、本土決戦して玉砕するかの二択しか選択肢は残されていませんでした。

終戦の聖断

西暦1945年(昭和二十年)8月9日、先のポツダム宣言受諾の可否について、天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)が開催されました。

参加者は

鈴木 貫太郎(内閣総理大臣)
東郷 茂徳(外務大臣)
阿南 惟幾(陸軍大臣)
米内 光政(海軍大臣)
梅津 美治郎(陸軍参謀総長)
豊田 副武(海軍軍令部総長)
平沼 騏一郎(枢密院議長)

会議の内容は、東郷外相による「1条件(天皇の地位の保証)付での受諾案」と、阿南陸相による「4条件(天皇の地位の保証、武装解除の日本側実施、東京を占領対象から除外、戦犯は日本側で処罰)での受諾案」が提示され、米内と平沼は東郷案に賛同。梅津と豊田は阿南案に賛同しました。つまり3対3の同数にまっぷたつに割れてしまったのです。

しかし、これは鈴木の狙い通りの展開でした。

鈴木は、文官と軍人で考えが全く違う事をよくよくわかっていました。故に「天皇の名の下に始まった戦争を、誰しもが納得する形に終わらせるには、天皇の御聖断しかありえない」という考えに行き着き、その為の演出を施したのです。

日が変わり8月10日午前2時頃、鈴木は会議の席上で起立し

「議論は出尽くし、意見は別れ、もはや収拾の余地がありません。誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が陛下の御前にまかり出て、陛下の聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」

と申し上げて天皇の御前に向かうと、天皇陛下は

「朕は、先程からの外務大臣(東郷)の案に同意である。陸軍大臣ならびに海軍軍令部長の弁を聞くに、現状として陸海軍の本土決戦準備がまったくできていない。この状態でこのまま戦いを続ければ、さらなる犠牲は勿論、最終的に日本という国がなくなってしまう可能性すらある。それだけは避けなくてはならない」

と仰られて、東郷案によるポツダム宣言受諾が決定されたのでした。

この「天皇の地位の保証と国体維持」の条件での受諾は連合国側に伝えられましたが、連合国は「天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定される」という回答だったため、従来通りの国体維持が困難になったことから、8月14日に再度御前会議が開催され、再度の天皇陛下の御聖断を仰いでいます。

そして「終戦の詔書」が発布され、翌8月15日正午、玉音放送がNHKラジオ放送で流されました。

と書くと何事もなく終戦の日を迎えたように見えますが、実は8月14日深夜から15日の夜明けに至るまで、一部の陸軍将校によるクーデター未遂事件(宮城事件)がありました。その模様は、映画「日本のいちばん番長い日」(原作:半藤一利)に描かれていますが、鈴木も小石川の私邸を襲われ、警護官に命を救われています。ちなみに鈴木は戦前の二・二六事件でも瀕死の重傷を負っていたので、軍部に命を狙われたのは二度目になりますね。

鈴木内閣総辞職とその後

鈴木は、内閣としての政治力・外交力ではなく、最終的に天皇陛下の御聖断を引き出すしか終戦に至れなかった責任を感じ、8月15日当日、天皇陛下に辞表を提出。8月17日、鈴木内閣は総辞職となりました。 

1945年(昭和二十年)12月15日、枢密院議長である平沼騏一郎が戦争犯罪で逮捕されると、後任の枢密院議長に再登板(平沼の前任が鈴木だったため)。翌年6月3日の公職追放まで議長の任を務めています。

その後の鈴木は郷里の千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に帰り。終戦から3年後の1948年(昭和23年)4月17日、肝臓癌で薨去。80歳でした。

敗戦色濃厚な戦時下において、政治的にも混乱していた日本政府をまとめあげ、難物だった陸相、海相を制御し、天皇陛下の意に沿った終戦工作を実施して、ポツダム宣言受諾、玉音放送による国民への周知までを成し得たのは、鈴木貫太郎の功績であると私は思います。

Wikipediaによれば、鈴木は終戦後の自分へのインタビューで、自分自身のことを「われは敗軍の将である」と述べ、決して自分その功績を誇ることはなかったとのことです。

毎年、終戦の日だけでもいいので、どうか知っておいてください。太平洋戦争戦争終結の影には「鈴木貫太郎」という人物がいたということを。

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