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第11話「雌雄決着」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

戸次道雪VS小早川隆景の戦いは、小早川隆景の敗北となり、毛利軍は立花山城の防衛網が崩れることを恐れて城に退却し、舞台は籠城戦に移りました。しかし立花山城の北方、豊前門司城(福岡県北九州市門司区大字門司字古城山)には毛利元就がすでに後詰の兵を入れており(元就自身は長門国赤間関<下関市>に着陣)、補給と援軍の期待できない大友軍は形勢不利となっていました。

「せめて、門司の兵だけでも撹乱できれば戦いようはあるのだが」

宗麟がそう考えた時、宗麟重臣の一人・吉岡長増が宗麟に献策します。

吉岡長増の謀略

吉岡氏は大友家2代当主・大友親秀の孫、親次に始まる大友家庶流の家柄で、長増は大友家19代当主義長、20代当主義鑑、そして21代当主義鎮(宗麟)と三代に渡って使えた忠臣でありました。

長増の献策というのは、かつて滅びた周防・長門の戦国大名・大内氏の一族にあたる大内輝弘をけしかけて、毛利軍の背後にあたる周防国(山口県東南部)で挙兵させる策でした。

時は遡り、西暦1499年(明応八年)9月、周防大内家14代当主・大内政弘の死後、大内家家臣・杉武明大友家18代当主・大友親治の助力を得て挙兵し、大内家15代当主となった義興を追放しようとする事件がありました。

その時、武明が大内家家督候補として祭り上げたのが、当時は僧籍に入っていた義興の異母弟・大内高弘でした。謀反は失敗し、高弘は大友氏を頼って逃亡、そして高弘の子・輝弘は大友氏の客将になっていました。

宗麟は長増の策を入れ、大友氏再興の大義名分を立てて、輝弘に兵を与え、周防に送り込むように長増に命じました。

この時、長増は、輝弘を毛利の後方撹乱用の単なる囮として使うのではなく、挙兵自体が一定の成果を持つように手を打っています。

長増は、毛利に滅ぼされた山陰尼子氏の遺臣で、出雲国(島根県)で尼子一族の尼子勝久を擁立し、毛利氏に対しゲリラ活動をしていた山中幸盛(通称:鹿之助)に対して弾薬・鉄砲および資金を援助。毛利領の背後から尼子の侵攻を促しました。

さらに旧尼子家臣で今は毛利氏に仕えている出雲国衆・米原綱寛に密使を送り、山中幸盛に合力するよう促すことに成功しています。実際、綱寛は元就の命令で出雲に戻りますが、山中幸盛に味方して、毛利に反旗を翻しています。

「頃はよし」

長増の謀略は毛利の元就への意趣返しとも言えるものでした。

大内輝弘の乱

大友水軍を支配している若林鎮興の手によって、輝弘は2,000の兵と共に無事に周防国に入ると、長増は大内の旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始。「大内輝弘の軍勢が豊前小倉城を攻める」と流言を流して毛利軍を揺さぶりました。

これは決して流言ではなく、西暦1569年(永禄十二年)10月9日に大友軍の田原親宏(豊後最大の国衆)に小倉城を攻撃させて、吉川元春小早川隆景の注意を釘付けにしています。

同年10月12日、大内輝弘は大内の旧臣をある程度集めると、総勢6,000兵の軍勢を率いて、毛利領の周防国山口に侵攻。高嶺城(山口県山口市上宇野令字高嶺)の攻撃を開始しました。

毛利本陣(長門国赤間関)の毛利元就がこれを知ったのは翌13日でした。

「いったいどうやって海を渡ったのだ?」

元就の驚愕は当然でした。
この時、周防、長門の周辺海域は、村上水軍によって毛利の勢力下にあると確信していたからです。事実、村上水軍は毛利家が陶晴賢を討った厳島の戦いで毛利家に味方し、その結果、瀬戸内海随一の水軍になっていました。

しかし、村上水軍の村上武吉は、吉岡長増の調略によって、筑前方面の通行税を取る権利を村上水軍に与えることを餌に、大友氏とも関係を築きつつあったのです。

そもそも村上水軍は毛利家の家臣ではありません。独立した水軍勢力です。厳島の戦いで毛利家に味方したのは確かですが、毛利家に義理はありません。武吉はこの後、四国の三好氏とも関係を築き、村上水軍の独立的存在を高めることに成功しています。

事態を重く見た元就は、同日、立花山城の吉川元春と小早川隆景に九州からの撤退を指示し、15日、両者は撤退を開始しました。同時に元就は石見国津和野(島根県鹿足郡津和野)の吉見正頼にも密使を送って山口に出陣させています。

輝弘が攻めている高嶺城は、市川経好(吉川家庶流)が城主でしたが、当時、経好は九州に出陣していました。しかし、城が攻められると留守を守る諸将だけでなく、近隣の寺社の僧兵や地侍などが集まり、皆、必死で防戦したため、輝弘は数日攻め続けても高嶺城を落とすことができませんでした。

そんなころ、同月21日、吉川元春と福原貞俊(毛利家重臣)の毛利軍主力10,000兵が赤間関(山口県下関市下関港付近)から長府(山口県下関市長府地区)へと移動。同軍は23日、長府を出発して山口に進軍。じわじわと迫り来る輝弘包囲網に、輝弘軍の士気は下がり、兵の統率に乱れが生じ始めていました。

25日、輝弘は残った手勢800を率いて上陸地である秋穂浦(山口県山口市秋穂町の秋穂漁港付近)へと撤退して豊後に戻ろうとしましたが、既に軍船は無く、止む得ず東へ逃亡。

しかし、この頃には毛利元就の命令が毛利方の諸将に行き渡っており、船を求めるも手に入らず、そして行く先々の各地の城から攻撃されるだけでなく、毛利本軍の10,000兵が後方からじわじわ攻め寄せてきていました。

輝弘は運命を悟り、浮野峠の茶臼山(山口県防府市富海)で、毛利軍と最期の一戦を試みた後、自刃。

大内輝弘の乱はこうして終結しました。

毛利元就の敗北

大内輝弘の乱は、大内家の再興という悲願を達成することはできませんでしたが、豊前、筑前の実効支配を確立しようとした毛利元就の野望を挫き、九州から撤退させたことを鑑みると、大友家の戦略面から見れば成功した言えるでしょう。

大内輝弘の乱が発生している間、大友宗麟は若林鎮興率いる大友水軍衆と地元海賊衆を動員して、豊前海より防府秋穂湾沖にかけて軍船を展開し、毛利の補給船を片っ端から襲撃。立花山城への軍事物資の補給を完全に絶つことに成功したのです。

さらに尼子勝久・山中幸盛のゲリラ軍も出雲国内の諸城を次々と攻略し、山陰尼子氏の本城だった月山富田城(島根県安来市広瀬町富田)にまで迫る一方、因幡・備後・備中・美作の旧尼子家臣に檄を飛ばし、勢力を急速に伸長させていました。

毛利元就は、大内輝弘の乱を鎮圧したとはいえ、村上水軍の裏切りで筑前、豊前の制海権を失い、それによって立花山城の補給も断たれ、背後からは尼子勝久と山中幸盛の叛乱で出雲、因幡、備後、備中、美作(島根県、鳥取県、岡山県)の実行支配を失おうとしていました。

これまでノリに乗って破竹の勢いで攻め進み、あと少しで筑前の支配権が手に入るところで、自らの足元でもある中国地方の実効支配が揺らいでいたのです。

しかも出雲国の支配が崩れるということは、尼子氏の再興が成されることを意味し、備後、備中の支配が崩れることは毛利の本国である安芸(広島県)が危険に晒されることに他なりません。

それは、元就がこの14年近くやってきたことが無駄になることに等しいことでした。さらにこの上、大友と戦うため、筑前、豊前に軍勢を割くことは、東西に敵を抱え、毛利本体の戦力が半減することを意味します。

また、この短期間で一定の勢力を確保した尼子再興軍を軽視することは危険だと元就の長年の勘が訴えていました。

その元就が出した決断は「筑前からの撤退」でした。
これには吉川元春、小早川隆景も反対したと思われますが、元就にとって今もっとも重要なのは、勢力を伸ばすことではなく、急激に広がった領国支配を確実に固めることであることに気づいたのです。

実際、毛利氏は厳島合戦から始まるこの14年間で、陶晴賢を討って旧大内の領国を加え、尼子を討って山陰地方を支配下におき、領国が以前の8倍になっていました。

しかし、戦争の連続でその領国支配の統治機構を固めるに至らず、その隙をつかれて山中幸盛の尼子再興軍などが立ち上がった事実を重く受け止めていました。

「今は二つの敵を抱える時ではない」

同年11月、毛利軍は立花山城に200兵ばかりを残し、毛利本隊を全軍撤退させました。

このタイミングを逃す大友軍ではなく、大友三宿老の一人である吉弘鑑理・鎮信父子が追い討ちをかけました。毛利軍は多大の損害を出しながらも門司に撤退しました。

強敵、墜つ

毛利本隊が筑前から撤退した後、立花山城は開城し、毛利と大友は再び講和しました。

また、休松の戦いで大友軍を大敗に陥れた筑前国古処山城(福岡県朝倉市野鳥)の秋月種実も、毛利の助力があてにできない今、大友氏に降伏するしか生き延びる道はありませんでした。

筑前国の有力国衆である秋月氏の臣従により、他の筑前国衆は次々と大友氏に従ったため、大友宗麟はようやく筑前国の支配権を完全に手にすることができました。

また、この戦いが毛利元就にとって生涯最後の出陣となりました。

この戦いの後、元就は病がちになり、三年後の西暦1571年(元亀二年)6月14日。73歳で死去します。

安芸国衆から安芸一国の戦国大名となり、大内氏、尼子氏という二大勢力を滅ぼして中国地方最大の大大名となった希代の謀将の死でした。

宗麟にとって、元就は当時最大の外的脅威であり、そして最大の好敵手でありました。皮肉なことに、元就の死は、北部九州において大友の筑前支配を確固たるものにする結果になりました。

というのも、元就の後を継いだ嫡孫の毛利輝元は、叔父である吉川元春、小早川隆景と共に山中幸盛の尼子再興軍の殲滅に力を尽くし、一方で備前国衆・浦上政宗の離反と和睦、さらに四国の三好氏への侵攻など、毛利家の基盤である中国地方の支配を強めるのにリソースを割かれ、その上、東から織田信長の勢力が迫っており、九州に構っているヒマがなくなったからです。

大友氏と毛利氏の北部九州を巡る攻防は、門司城のみを毛利に奪われたものの、残りは全て大友氏の実効支配となったため、大友氏の勝利という形で決着しました。

しかし、宗麟に安堵する時間はありませんでした。肥前から大友領国である筑前、筑後、肥後を龍造寺隆信が狙っていたからです。

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