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エッセイ ちくちく ∬ちくちくと呼吸∬

◇ 今回は、ヨガの中からプラーナーヤーマについてなど、プチヨガ講座のようなものにもなっています。ひとつ、プラーナーヤーマも簡単に載せているので、ちょっとお得かもしれません(笑)
イラストは、小説『小人との対話 悟り世代』の使い回しです。


ちくちくと呼吸


 
何がどうなってこうなったのか、物事というものは思ってもみない方向に流れていくものである。
そんなの、自分でそうしたんだろう。
それはそのとおり。確かに自分でそのようにしているからそうなっている。誰かの人生ではない。他でもない、自分の人生なのである。
でも、その流れを辿っていくと、それは「自分でそうしようと思ってした」とだけでは説明のつかないようなモノが絡み合って流れに合流して行く様が見えてくるのもまた、嘘でもない。責任転嫁などするためのものでもなく、それもまた事実だ。
まるで、ちょろちょろと始まる川の源流のように、発端など大したことのないものだったりするのに、それは徐々に勢いをつけて、幅を広げ大河となるかのように。
大河には、別の名のついた支流が合流し、またその幅を広げていく。
地球上にある全てのものは、人間の肉体、内側に限らず、事象にも当てはまるものだ。
だから、迷いや悩みが沸き起こったときには、自然の中に身を投じ、「自分」にフォーカスをあてるのではなく、自然の方にあて、耳を目を感覚全てを自然に委ねてみると、答えのようなものが見えてくる。答えまで見えなくても、何かヒントのようなものを与えてくれるだろう。
などと書いているのには一応理由があり、何故こうして「ちくちく」と針と糸を持って創作している自分がいるのか、を考えたときに、その源流は手仕事が好きというところなのかもしれないけれど、川になるまでにはどうにも複雑に絡み合っているような、たくさんの支流が合流しているような、それでいて本当は支流の入り込んでいない、ただの一筋の川だけしかないような、なんとも不思議な「今」なのである。
でも、その「今」は「今」なのだから、それに身を委ねるのがよい。
この「ちくちく」のエッセイもそのひとつだから、委ねる。何故、エッセイなど書く(描く)のか、とああだこうだと考えてみたところで、そんなものはただの故事付けに成り兼ねない。
ただ書いて(描いて)いる。それだけのことだ。

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