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無職の目から2024を考える(妄言)

1月になりましたので新年ですが、主語を大きくするとろくなことがないので、自分のことだけ考えて自分が2024にどうするかを考えたいと思います。これを私の造語で言えば「喪苦行」もくぎょう
とか言うのですが、喪は故人を悼むと同時にネットスラングでは「モテない」の意味も持っておるので、独身者であることの表明であります。苦行とは何か。みずから引き受ける、大変な、しかし意味と意義のある行いであります。大変なのになんで引き受けるのか。偉いからではありません。それをこなして終了までもっていけば、大きい価値、それをする前とした後ではかなり大きく変わる、そのような経験体験知見了見を、新しいビューを観させられる、見える、遠くまでみえる、世界が新しくみえる、そのようなハードルでありのりこえられるためだけに存在するものであります。

何を言っているのかわからないわかりにくいと思いますが、脳が赴くままに語っているので仕方ありません。

いずれにせよ、年々、加齢していくごとに「これはもうどうしようもないな」となっていくのが人間のような生きものであり、どこかから、来年はもっと大きく広いことができる、という成長カーブが逆転して、だんだんできることが少なくなり、可能性が縮減して、じわじわと死が近づいていることをいやでも自覚するものです。
しかしこの深淵を考える前に、この新年に私が自覚したのは、私が時の流れの中にいること以上に、私以外の人間もまた時の流れに流されて老いて、私よりももっと先に老いた死が、先にくる、先達はつねに先をいくのであります。それを、世話する、いわゆる介護というもの、ケアといいますが、大きい概念でケアといいますが具体的には自分ひとりでトイレにいけなくなるとか食事が食べにくくなるとかの段階に突入した人をまだ生きた状態においておくためにトイレケア(’オムツケア)するですとか食事介助(ここでは柔らかく食べやすくした一口大のものをスプーン等を用いて口まで一定のゆっくりしたペースで運んであげることを意味します)するとかを表します。この老いた状態の人はまだ咀嚼と嚥下はかろうじて自分でできる状態と仮定して。しかし四肢運動機能が低下してトイレまで自分ひとりで移動することはできません。そうなってからも人間はケアさえあればまだまだ生きるでしょうね。
もしここでケアがなければ^ー単身者がそうなった状態をいえば、簡単には糞尿が垂れ流しになり自分ひとりで衛生を維持できないのですが、そのまえにまず生命を維持する食事をつくる買う運ぶこと自体ができないので、衛生云々の前に餓死するでしょうね。
私が極端なことを記述していると思われるでしょうがシミュレーションとしてはおそらく必ずこうなります。こうはならないだろうと思っているほうが現実から遊離していると思いますよ。このような事例はゆっくりすすむので露わになりにくい(ゆっくり進んでいるうちに誰か他者から発見されてしまう)だけであり、新聞やネットニュースが報道しないだけの孤独死や無縁仏は年々たくさん発生しているわけですし。

つまりそうなる前に、そうならないように、「家族によるケア」が行われたり、「介護保険によるケア」が行われるわけで、あります。

人間は簡単には死ねない。
これは他人(たとえば自分の親)であっても、
自分(私)であっても、
同じように簡単に死ねないのであります。これだけがたぶん2024の真実であります。私は無職ですが、無職であってもそうではない状態でも、同じことです。真実というのは無職であるかないかを関係なくする力があります。

私は考えることで「先に何が起こるか」を考えることが好きなので(当てたいとは言っていない)、時間がいつなのかは分からないが必ずこうなるということはあるだろうと考えており、それについて考える(どのように行動するか、どのような行動をしないか)ことは意味があると思います。あきらかにショックをうけると、行動すべきでないことをしてしまったり、行動すべきことをしなかったりするもので。

例として極端ですが、倒れた人を人命救助できるか、声かけできるか、AEDとってこいと周囲の人間に命令できるか、心マができるか、救急車を要請することを周囲の人間に命令できるか(これらには順序があります)
だいたい1声掛け2心音確認3救急要請とAEDキャリー
のあとに心マなどになりますがそれは大事なことなので赤十字などちゃんとした資料にあたってください。医療関係は中途半端にわかっていても間違いを引き起こす可能性があるので。
でもめんどうに巻き込まれたりあとで文句いわれたりしたらいやだなあ、倒れてる人は寝てるのかもしれないからほっておこう、きたないオッサンみたいだしな・
とか思ってて通り過ぎていったりしないでしょうか。私はそうする自信がありますね。

よって、予想通りに「おっさんが倒れていた」場面に遭遇したとき、時間がないので、ノータイムで何も考えないで第一直観だと「おっさんだ汚いな逃げよう」となりますが、あらかじめ第一直観をシミュレーションしておくと、「汚いけどおっさんも人間だしオレも人間なのでできることするか」となる可能性がちょっとだけ高くなるわけです。

エクストリームな話をしてるとお思いでしょうか。

私が年頭にあたって考えたいことは繰り返しになりますが、無職であるとないとの違いは大したことはなく、大したことというのは必ず起こること全般であり、この世のこの日本においては、生老病死と災害と事故であります。それは正月から皆さんだいたいお判りでしょう2024。

そのためにフライトアテンダントさんたちは常日頃から脱出訓練を避難誘導指示を練習訓練するのであり、アナウンサーはどのような発声が真に避難行動促しに効果があるかを訓練し、看護師や医師やその他コメディカルは救急救命訓練を行うのであります。

同時に誰もが当事者であるのは生のほかには死だけでありますので死を想えいう標語はウソではなく本当のことであり、本当に死について考えるならばいまあるここでする行動がマジに真剣とかいてマジになることは必然であります。

ケアをする人される人も目の前にある現実の要請にしたがって衛生を保つために排泄後のオムツは交換しないといけないわけであります。否応なしに。

私も加齢により排尿後の尿モレが起こる年齢となってまいりました。真剣に尿パッドの使用など検討しこまめな洗濯をこころがけて生きていきたいと思います。以上が年頭にあたっての妄言となります。今年の最後まで生きのびられますように。

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