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欲張りな子供と

お陰様で体の具合は良くなって、この一週間は随分といろいろなことがありました。

メリアンさんのライブに行って感動したことや、ナマの翠さんと笹塚心琴さんにお会いしたこと、大学時代のゼミ同期生たちとの新年会で言われたり泣いたり思ったこと、そして、今日はヒエロニムスボスの「快楽の園」の映画を観て、ちょっともう、抱えきれないくらいの刺激を受けてしまって、若干気持ち悪いです。

その一つ一つが私にとってすごく大切な出来事で、ここ数年考えていたことが一気に溢れて、自分と向き合うことを促しているので、整理しきれず、すみません、もう少し時間をください。

刺激があるのは、ありがたいことだ。でも正直なところ疲れるし、揺さぶられることは、あまり心地よいことではなく、崖の上では生死に関わる。自分の人生について、不安と、猜疑心と、絶望のような焦燥感に苛まれた昨年末から、胸ぐら掴まれてステージに立たせられたような、そんな気持ち。その舞台では、ハムレットのように「あれか、これか」を悩み、答えをだし、表現しなければならない。

一つ気づいたことは、私は子供で、たくさんの「可能性」という名前のついたおもちゃを両腕にいっぱい抱えて、うろうろしていた、ということ。どの可能性も捨てられず、どれかを選択することが怖くて、でもたくさんの可能性は、抱え持っているだけで、どんどん両腕からこぼれていく。焦って、動き回ればそれだけこぼれる。じっと抱え持っていても、どんどんこぼれる。どうせおもちゃなんだ、なんだっていいだろ、と周りの大人は言う。いい加減、どれか選べ。

本当は、わかっていた。何を私は欲しいのかは、私が一番わかっていた。だけど、これ、と選んでも、それがすぐに壊れてしまったら?それ以外の手放してしまったおもちゃの中に、一番ではないけどそこそこ楽しいものが、あったかもしれない。。

可能性のおもちゃに翻弄されて、欲張りな子供は、結局なに一つ満足にできずに、途方に暮れる。そして嘆く。その嘆きに与えられるのは、叱責しかないのに。

自分の求めるものが何か、自分の健全な欲望を理解するのが大人なのだと、改めて思ったのです。そしたら、何をするか。行動しか残っていない。苦手で、嫌いな、一歩一歩。本当にできるのかな、私に。怖いけど、もうそれしかない。自由の牢獄の扉がなくなったのを見てしまった。

ところで、最後になってしまいましたが、メリアンさん、本当にライブ楽しかったし感動しました。ありがとうございます。一緒にいってくれた翠さん、本当にありがとうございます。笹塚さんも、名刺までいただき、ありがとうございます!みなさんにお会いできて、リア充すぎる休日でした。今後ともよろしくお願いします。

#エッセイ



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