闇の奥は真実か

たった一度、翻訳を読んだだけでジョゼフ・コンラッドを語ることはできないのはわかっているが、せっかく「闇の奥」を読みおわったので、直後の率直な感想を書いておくのもいいかもしれない、と思った。

本当はその前にトーベ・ヤンソンの「誠実な詐欺師」に心を奪われていることを書きたかったけど、春が過ぎてしまってなんとなく季節感が違うことで躊躇した。でも私にとっては、「闇の奥」も、人種差別や人間の原初的な欲望の話ではなくて、嘘は真実と対義語なのかという、いつもの私のテーマに落ち着いて、「誠実な詐欺師」と同じように捉えた。

この難解なコンラッドの小説は、アフリカの原始林で、聡明で理想に燃えていたクルツという男が、自然の驚異の力に屈して、象牙収集を野蛮な方法で行うようになってついに狂って死ぬ、というストーリーについて語られる。けど、私はこの小説を読んでもクルツがそんなに異様で謎めいた人物に思えなくて困惑した。文明側にいて、語り部のマーロウに関わってくる人間たちのほうが異様だったし、語り部であり、クルツを迎えに行くためにアフリカへの冒険をするマーロウのほうが不可解で謎めいて見えた。

特に、マーロウは嘘をつくことに嫌悪感を感じる、と言いながら、自分が会社の人たちに、優秀で影響力がある人物と勘違いされたときに、それを否定しないで敢えて勘違いさせたままにする行為や、小説の最後にクルツの婚約者につく最大の嘘のことを考えると、「闇の奥」も「信用できない語り手」の手法の一つのように思う。マーロウは、クルツと自分が同じ境遇に合って心が通じ合ったんだ、というようなことを各所で執拗に繰り返しているが、結局、そんなに関わっている時間が短かったことを考えると、それも彼の願望めいた主張でしかないように思う。もちろん、時間が短くても心が通じることは多々ある。でも、小説を読んだなかで、この部分がマーロウとしては心通じた場面なんだろうな、と思うところはあったけど、腑に落ちなかった。

この小説を読んで、私は自分が思う信用できない人たちのことを考えた。必ずしも嫌いというわけではないけど、話を信じないことにしている人たちがいる。彼らは、私は事実と違うと判断することを真実と信じることができる。嘘をついている気がない。だから余計に怖い。自分に都合の良いことを信じられるのは強さかもしれないけど、怖くて私は信じる気になれない。私の真実を揺るがすからだ。

マーロウにもそういう信用できなさを感じた。彼は嘘をつくつもりなく、そして実際に嘘を言ってないのかもしれないが、嘘つきだと思った。恐らく、周りの人間たちがすごいすごいと言うクルツという人物のすごさが実感できなかった自分をごまかすため、その人たちよりもオレは彼を理解してるし分かるんだ、と言いたかった、思いたかったのではないか、と思う。

ただ、私のように個人的な欺瞞のほうが、人種差別といった社会的な欺瞞の話よりもしっくりくるから、マーロウの嘘、という部分に訴えかけられたのであって、社会的な欺瞞に憤慨するほうが自然な人たちにとっては、そちらの物語がより際立って見えるのかもしれなく、結局は小説のテーマがマトリョーシカのように大きくも小さくもあちこちに、いろいろな解釈をしながら感じとれるように書いてある、、つまりはコンラッドすごい、なんである。

アドベンチャーとしてもホラーとしても、ミステリーやサスペンスとしても、あるいは青春小説としても読めそうな書き方をしていて、ちょっとこれはすごいなと思った。情景描写も素晴らしい。なんといってもまだ一回しか読んでないから引用できないけど、はじめの一行から素晴らしかった。気がする。さすが夏目漱石先生の尊敬するお方です。また何度も読んでしまう気がするし、ほかの作品も読みたいな。

ということで、感動のままバーっと書いてしまったので読みにくくて申し訳ありませんが、このまま公開します。ちなみに、「地獄の黙示録」は見たことありません。

#コンラッド #闇の奥 #エッセイ

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