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生と死 私たちに出来ること

先日、学びを共にした同志が闘病の末、亡くなりました。
直接、お見送りをすることはできなかったけど
自分の中での大切にしたいものが見えた週でした。

■自分はどう命を終えていきたいのか?
訃報を聞いて生まれた気持ちは「よく頑張ったね、やり切ったね」だった。
もちろん、未練はあるだろう。
でも、自分の意志というものを見せてもらっていたからこそ、
一番に生まれたのが敬意だった。
周りに敬意を示して欲しいとかはないけれど
自分自身の命が終わる時「やり切ったね」「楽しそうな人生だった」と
送られたいなと思った。

■パーツとセルフの発見
以前より身体やパーツに寄り添う。
そんな配信をしてきたのだけど
「泣くのを我慢している」パーツ 
今回、明確に捉えることができた。

訃報を聞いた時、ショックだった。と同時に、涙が出なかった。
こんな状況を俯瞰的にみている自分がいた。
「悲しくないの?」「涙が出ないの?」
泣くのがいい、悪いではないけれど
きっと今までだったら「なんて冷たいやつだ」と自分のことを罵っていた。

幼少期、初めてのお葬式。故人を見送る場で笑っている大人たち。
そんな大人たちが信じられなかった。
「大好きなひいばあちゃんが亡くなったのになぜ笑っているのだ
(今なら分かるんだけどね)

死=悲しい、涙が出る。だけではない複雑なものがみんなにある。
ことを自分が理解できるようになった。

関係性にもよるし、言葉・表情そこに全てが見えるわけではない。
「私が感じたことを大切にしていい」「人が感じたことを大切にしていい」

そんな感じていることを大切に見つめていると
「泣くのを無意識に我慢している」そんな子が見つかった。

その子に寄り添うことができて(今回は音楽や絵が溶かしてくれた)
我慢しているとも思っていなかった涙がとめどなく流れたのだった。

IFS内的家族システムというものがあり

●追放者 ●管理者 ●消防団 と言われるパーツが存在し
それらを自分自身を守るために必死に頑張ってくれた複人格と捉える。
そして、そのどれでもない全ての人が生まれながらに持つ「セルフ」と言われる本質的な自分が皆にある。
セルフに会うために、全てのパーツに気づきを向けて、全てのパーツを大切に愛していく。という考え。

「すぐ泣くんじゃない」と本当は泣き虫なのに、追放されているパーツ
泣かないようにと、管理しているパーツなど

今までは気づかず、全て自分と同一視していた感情たちに
想いを向けて、セルフの自分が優しい眼差しを向けられた瞬間だった


以前、友人を亡くした時は
「私なんかよりもっと辛くて悲しい人がいるのだから
自分が悲しむのは違う」
と思っていたし
育児や仕事をしていても
「私よりしんどい人がいるのに、私が弱みや悩みを持つのは違う」
真っ向から、自分の感情を押し殺していた。

その行動が正しいわけでも、間違っているわけでもない。
その抑え込みがあったからこそ、感情の抑圧というものが
自分にあったからこそ、一つ一つの感情を見つめることができている。

数日経つ中で、もっとできたことがあったのでは?
とか自分に対する哀しみや憤りも見つかった。

ただ、私たちが自分以外の誰かに出来ることなんて
微力でしかないのだ。

私自身、むしろ微力でしかないという気持ちを持っていたい。

それは自分への力不足さからくる自己否定ではない。

人や命に対して
「他者が介入して変えていく」そんな権限などないから。

近くにいても遠くにいても
嬉しいことも悲しいことも、腹ただしいことも

関わってくれた一人一人が教えてくれたことを
噛み締めて歩んでいくことが私たちに出来ること。

こうした方が生きやすいという指標はいくらでもある。
だけど、自分がどうして生きたいかなのだ。

怒る自分(人)が嫌いだ
自信がない自分が嫌いだ
閉じこもって人関われない自分が嫌いだ

あっていい。

感情がすぐに出ない自分
そんな自分がいてもいい

嫌いと嘆く部分や人でなしだと嘆くその一部分は
必死に自分を守ってきてくれたもの、

嫌いがあるから、自分の大切にしたい部分や
本当に大切にしたい部分も見えてくる。

自分の気持ちに真っ直ぐに
命に真っ直ぐに生きること

生き抜くことが、私「一人一人が出来ること」



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