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「SNSに見受けられる迷惑な人の特徴」からの考察

グサリとくるタイトルですが
メンタリストDAIGOさんの Youtubeを見ての気づきを。

いる、いるー。と言う他人事ではなく
読んでどんな気持ちがするだろうという視点でぜひ!

概念の部分はそのままの要約なので傷つけたらごめんなさいね。
読んで欲しいのは後半です!

サッドフィッシャー

自分の感情の状態を誇張して同調を引く人=サッドフィッシャー
ここには愛着のスタイルが関わってくるようで
①安定型; お互い適切な距離をとっていい関係を作れる
②不安型;嫌われるのが怖く、熱しやすく冷めやすく感情が安定しない
③回避型;人間関係で深いところまで入られるのが嫌なので回避をする

サッドフィッシャー は人間関係を上手く作れない不安型であり
自分を改善するのではなく、不安だから相手を依存させようとする。
これをしていると 他人を操ることが快感となる。
いざという時に助けてもらえなくなってしまう。

ドラマ欲求

ドラマ欲求=NEED FOR DRAMA
・人生をドラマチックに脚色したがる
・物事をなんでも大袈裟に言う
トラブルを自ら作って周りを巻き込む

原因としては
・自信がない→物事を大袈裟に言って無駄なトラブルを抱え込む
=平凡な日常が許せない
・協調性の低さ→思ったことをすぐ口にだす。
・常に被害者づら
特に不便なくまともに育っているが容姿の不満などをいう。
自称アスペルガー、自称ADHA
・常に同情で他人を操作
・誠実性が低い
計画性がなく、物事をコツコツやるのが苦手
故に嘘をつき、作話、同情で他人を操作 被害者ヅラをする。


ネットニュースのシェア

ニュースをシェアするだけで自分の頭が良くなったかのような気分になる。
記事を読んでいなくても、頭が良くなったかのような錯覚に陥る。
ニュースや知識を共有するという行為自体が
知識があるという信念を強化してしまう。
これは自分を満足させるための行為(賢くなった満足感を感じる)

以上がそのタイトルの中身をとても簡単な要約でした。

これらの弊害や課題に生まれる問題をどう見る?

①いるよねいるよねーあんな人いるわ。迷惑ー。他人事。
②うわ、思い当たる節があるわ。自己否定に入りSNS・発信自体を止める

思ったこと、感じたことによりいくらでも
この先の行動が変わると思うのですが

私たちって完璧じゃなきゃいけないのかな?


きっと私のnoteを見にきてくれる方は、繊細さんが多いです。
その上でこの内容を書きました。前半で傷つく人もいるだろうと。

いい人でいたい、他人に迷惑をかけてはダメだと踏ん張る人が多いと
思うのですが
先ほどの概念に見受けられる特徴、自分の中にもありませんか?
私の中にもあるよ?

ここでカテゴライズするのも苦手なのですが
敢えてのHSPと言う言葉を使って書きます。

HSPは人の内面や表情から読み取る情報量がとても多く
おそらく今まで人の様子を見ながら無意識であっても
「その人が困らないように」「人間関係が上手くいくように」
色々と根回し・画策していたのではないでしょうか?

そんな先回り行動・気遣いをしながら
そんな自分を「詐欺師」や「偽善者」と責めてみたり…
ありませんか?

そしてそんな行動をしては「こんなに頑張っているのに気づきもしない」と
他者への不満を抱えてみては
本来は人が好きなはずなのにと自分の心の複雑性に葛藤を覚える。

人生の中で、何回もやってきました。笑
なぜこれくらいの配慮もできないのだと
ため息をつく自分が何度も何度もいました。

完璧などないのに、一般的に求められる完璧や当たり前・模倣されるもの
であろうと
自己評価も厳しく、他者評価も厳しい私がいました。

でもね、そんなブラックな自分も出てきていいじゃないかと今、
思えています。
みんな一人の人間として「見られたくない自分」も抱えています。

自分はそんなじゃないそんなつもりはないと反発するより
「うん、いるいる、そんな自分も出てくるわ」
ブラックな自分が出てきた時は
「ちょっと頑張りすぎちゃったかな」といい意味で内省した方が
よーーーっぽど気が楽!笑

すべての人への思いやり

まだまだ難しいことだなと思うし、概念や定義というものがあって
そんな枠や定義があって、安心をする人が自分も含め多いことを
知っています。

HSP・ジェンダー・障がい名 はじめ 
自称〇〇
 今、世の中、いろんな概念が存在しますよね。

ちょっとフォロワーさんを離れた方達のコメント欄を見ると
このあたりの定義について、荒れに荒れているコメントをよく見ます。

自称〇〇は迷惑。ちょっと黙ってもらえませんか? 
あなたは話が通じませんが〇〇という障がいですか?

など。 とても苦しくなる。

昨日「幸せ」を考える講演会に参加したのですが

いわゆる少数派と呼ばれる人はカテゴライズされた
「特別視」をして欲しいと思っているのでしょうか?

少数派だから思いやる。とかではく
誰もが得意、不得意があるわけで完璧などない。

年齢とともに変わるもの、状況により変わるものもあり
常に一定なわけがないんです。

HSPは気質であり病名でもないですし
障がいも診断にはっきりした境界線があるわけではなく医師によっても
変わったりします。

トラウマの学びもしてきましたが
みんな「心の傷・トラウマはある」し自身の愛着が安定している時も
不安定だなと思う時もあります。

いろんな定義があり、いろんな概念があるこんな世の中で

その定義に入ることで安心をする
その定義から外れることで安心をする

この段階があってもいい。
しっかり、自分の中で安心感を育んでいい。

ただ、安心感を覚えた人が次にできることは
「一人一人をまっすぐみる」ことじゃないかなと思うのです。

自分の成功体験さえ鵜呑みにしない


私自身、今までの自分〜お仕事をし出した時に
こうすれば成功。こうすれば幸せ。
そんな方程式をどんどん作っていきました。

そして「なぜこうすればいいのになぜしないのだろう」
そんな視点を持った時期がありました。

自分は他人ではないし、他人は自分ではない。

「私がこうなれたから、あなたもこうなれる」
この謳い文句が甚だ嫌いなのに
憧れを抱いている自分もいて迷子になってみたり
自身もこんな風に謳っているようで 嫌で堪りませんでした。

私はこの方法で克服・変化できたかも知れないけれど
他人はその方法で克服できるとは限らない。
そもそも、克服したい・変化したいと思っているのか?

自分が「できた」という体験は素晴らしいと同時に
「私ができたのだから、あの人もできる」という押し付けに切り替わって
いないか。

そのままで在るという完璧性を感じながら
「自分は完璧にできている」と自惚れていないかと疑うことも大切だと
私は思っています。

偏るからこそ、気づけることもあり

いろんな日々の気づきの中で
私はどう在りたいのか、立ち戻る瞬間を日々持ちたいなと思っています。

 

 


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