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5歳の息子の手を引いて、戦争の入り口に立つ。戦後世代の戦争体験

8月6日午前8時15分、黙祷。
大分県では私が子どもの頃と変わらず、この日は夏休みの平和学習の登校日になっている。
社民党王国だったり、日教組が強かったり、政治構造が独特な大分県ならではの風景だけど、この平和学習は誇りに思っている。


今朝、市役所が黙祷を呼びかける放送の後に、サイレンが鳴った。造船所もある地域なので、お昼休みや始業、終業の合図で1日4回はサイレンが鳴る。聞き慣れているはずのその音は、子どもがEテレを見ている平和な朝を切り裂いて、鳴り響く。
普段は1分も鳴らすことがないから、より長く大きい音を出すために回転数が上がっているのだろうが、いつもより哀調を帯びている。
私も私の親も戦争を知らないが、祖父母たちは確かにその耳で何度も何度も、数え切れないほど空襲警報を、それに続く不気味なエンジン音と、時に爆撃の音を聞いただろう。

戦争と共にあった/なかった人生


私が小学生の時、平和学習の一環で今は亡き祖母・久江に空襲について聞いたことがある。
「わたしのそぼは、きじゅうそうしゃにあったそうです。」と、まだ漢字を習っていないその言葉を作文に書いた。機銃掃射が田んぼの上を舐めるように撃ちまくり、祖母は済んでのところで畦の窪みに飛び込んで助かったのだという。
その時、彼女は何歳だったか。私の子ども時代とかけ離れた戦時中の生活。

亡き祖父・憲治も南方での戦闘から帰還したものの、その後の生涯でマンゴーなどのフルーツは口にしなかった。生き長らえてもなお、深い傷跡を残す戦争。

戦後世代なりの戦争体験


戦争を体験した世代ではなくとも、戦後世代なりの戦争体験はあるはずだ。それを自分で認識していかなければ、戦後ですっぱり戦争体験はなくなってしまう。
私は戦争を経験していないけれど、それでも祖父母世代の親戚は戦争を経験しているし、おそらく全くの別世界であろう子育て・孫育てを通して平和な子ども時代を初めて噛み締めたのだろう。同居の祖母は何毎回でも、「食べ物は粗末にしてはいけない」「食べるものがない時があった」「うちどう(私達)がちぃせぇときは…」と私に伝えてくれた。おそらくは、伝えるでもない独り言であったのだろうが、耳にタコができるほど聞いても食べ物のない辛さや子どもが戦争に襲われる恐ろしさは想像もつかないままだった。

今でも、私の実家である大分県佐伯市には多くの防空壕が残っている。中には大型のトンネルのような立派なものもあり、地主が車庫として平和利用していたりもする。いつ崩落してもおかしくないような山の裾野の防空壕は、入り口が塞がれているものも多いが、小学生の頃は格好の探検の場所だった。(一部はホームレスが生活したり、不良の溜まり場になったりしていた)

そんな僅かな戦後世代の戦争体験も、私の息子にはないものなのだ。私の息子は東京で育ち、恐らくは8月6日の登校日と平和学習も体験せず、防空壕で探検することもない。だからこそ、戦争を知らない世代なりの、戦争体験も、語り継ぐべきなのだ。今ならまだ、間に合う。私の祖父母の口から、語るのも辛いだろう戦争体験を、曾祖父・曾祖母から、ひ孫へと伝えてもらうことがまだできるのだ。それをお願いすることはとても勇気がいるし、もしかしたら断られるかもしれないけれど、それでも、80代90代を迎えて存命の戦争世代と、子どもたちの接点を持てるのは、この10年ほどが最後のチャンスなのだ。

私が子どもに語れることは何だろうか


8月6日、8月9日、8月15日、九州を離れても毎年夏は平和学習の期間だと思って過ごしてきた。
それでも、6月23日の沖縄慰霊の日を知らないままだった。
3年前に、拡張家族旅行で私と子どもの誕生日を合わせて1週間滞在した沖縄での、沈鬱な空気。
バカンスをしに行った自分を恥じると共に、どうしても美しい自然と今を生きる人と、戦争の歴史が結びつかなかった。
それからいくつも沖縄戦の本を読んだが、私にはまだわからない。きっと生涯わかることはないからこそ、耳を傾けていかなければいけない。

戦後は戦前である、その重い言葉を、5歳の息子に平和とは戦争とは、なんであると伝えたら良いだろう。無知を知ることもなければ、平和を失ったことに気づきようもない。私たちはいつでも戦争の入り口に立っている。

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