見出し画像

ステイシー先生の変遷とアラン牧師夫人の消滅に見るアンのロールモデル


「アンという名の少女Anne With An E」の再放送が最終回を迎えた。2回目として見直しながら、やっぱり傑作!と再確認。このドラマ化のどこが傑作なのか、これまでのメディアミックス化と何が違うのか。

今回はステイシー先生の変遷とアラン牧師夫人の消滅から考えてみようと思う。

2人の女性はアンのロールモデルとなる女性。その姿は、教師を経て、牧師と結婚して牧師夫人となったモンゴメリ自身とも重なる。

アンという名の少女(以下AWAE )の配役と役作りは、本当にどのキャラクターも秀逸なのだけれど、とりわけステイシー先生ほど、ドラマやアニメごとにイメージの違う人物はいない。

今までのステイシー先生としては映画化で有名な1986年のミーガン・フォローズ版。こちらのステイシー先生はいかにもお化粧の脂粉の匂いが舞ってそうな華やかな美人だ。髪の色はダイアナのような憧れの黒で、全身が最新のファッションとアクセサリーで彩られている。この女優さんは、原作をもとにしたアヴォンリーへの道でもステイシー先生として登場し、キングさんとの対比として、生活の派手さを新聞に書きたてられているほど。子どもの当時は私もそのイメージに疑問をもたずに受け入れていたけれど、原作と読み比べてみると、彼女が消化を良くするための体操を毎日子どもたちとしていたとは思えない。古き良き時代の物語にしても、遠い島の田舎まで来て、わざわざ教師生活を送るようなひとには見えないのだ。それこそ街中で夜11時にアイスクリームを食べてそうなタイプの女性。

高畑勲・宮崎駿の世界名作劇場赤毛のアンのステイシー先生はもう少し凛としている。原作通り、今までに見たことのないくらい大きな流行のパフスリーブを身に着けていて、お洒落ではあっても、キリっとしていて、どこか80年代の肩パッドを思わせる。髪は金髪。生き生きと指導をしていて、かなり原作に近く、違和感がない。

けれど、AWAEのステイシー先生には仰天した。なにしろ初登場はエンジン付き自転車、オートバイに乗って走り来る!もしかして制作陣は木下惠介監督の二十四の瞳を見たのかもしれないと思った演出だ。大石先生のスカートに自転車よりも、更に過激に、ズロースにオートバイという姿は、カナダの片田舎のアヴォンリーの大人たちを仰天させ、アンも「今の何!あんなの見たことない!」と狂喜する。

まさに男勝り、コルセットも時にはスカートも拒否し、おそらく理系、それも工学系出身者なのだろう、オートバイだけでなくて、印刷機も機械油まみれになってスパナを振り回しながらエンジニアリングし、魚の燻製器も自家製だ。19世紀末が舞台の世界ではかなり奇妙に映っただろうし、正直、私ですら赤毛のアンの世界に彼女のような女性が登場するとは思わなかった。アンはステイシー先生に憧れるけれど、それは今までのような外見の髪の色や、流行のファッションだけはない、彼女の時代の先を行き過ぎている先進性と古い慣習を恐れない勇気に憧れるのだ。それでいてとてもチャーミングで可愛らしい。どうしょうもないビリーアンドリュースさえ、ステイシー先生の前では大人しい猫のようになる。

これだけでも充分驚きなのだけれど、このドラマのステイシー先生はアンにそっくり!

アンも「生き別れの姉妹のように似ていますね」というほど、外見もキャラクターも似ている。マシューも何も言わないが、馬車にステイシー先生をのせたときにマシンガントークされ、アンとそっくりなことに気づいている。こうなると、アンが「私、ステイシー先生のように、皆に良い感化を与える教師になる!」という夢も自然な成り行きとしてわかる。

一部の赤毛のアンの愛読者の中には、アンが大人になるにつれ所謂リア充になってしまい、主人公としての面白みがなくなってしまうのを残念がるひとも多い。確かに大人になってのアンは、特に出産してからのアンは、善良な母親になってしまい、物語のキャラクターとしては物足りなく見えたりもする。

けれど、このステイシー先生に憧れたアンならば、決して平凡な主婦にはならないであろうと思われる。それだけに、シーズン3で打ち切りになってしまったことが残念でならない。

また、このドラマからは完全にアラン牧師夫人の存在が消されている。彼女もステイシー先生に並ぶ、アンの憧れのロールモデルになる主要人物なのに。あの咳止め薬入りのレイヤーケーキエピソードも品評会での出来事になってる。

おそらく彼女の生き方が、ステイタスの高い男性と結婚し、支えることによって成り立つという昔ながらのアイデンティなのだからかもしれない。
アンの大学での同級生も、ほぼ牧師と結婚しているし、モンゴメリ自身もそうだ。それが当時の教養のある女性の無難な人生の終着点で、だからこそ、赤毛のアンの物語は、中流家庭のそこそこ裕福な子女たちの愛読書になったのだろう。

ただ、それはこのドラマでは省かれてしまった。少し残念だけれど、もしドラマが続いていたのなら、なんらかの形で登場していたのかもしれない。このドラマはクリスチャン、とりわけモンゴメリやアンが通っている長老派プレズビテリアンの教会をあまりよく描いていない。それもアラン牧師夫人を登場させない原因なのかもしれない。原作でも、上グレンで子どもたちをネグレクトする牧師が出てくるのだけれど、それはどうやらモンゴメリの夫をモデルとしているらしい。

モンゴメリは一説では鬱病で亡くなったとされる。私たち日本の少女が憧れる英国風の暮らしは、きっと現実はこのドラマで描かれたように、厳しく、優しく、残酷で、希望があって、板挟みの世界なのだろう。モンゴメリは間違いなくアンのように、幸せを感じ、そして絶望していたのだろう。現代に生きる私たちと同じように。

機械油にまみれてチャーミングなステイシー先生と、消滅したアラン牧師夫人はまちがいなく、このドラマの斬新さの象徴のひとつだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?