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続・友人の話

前の記事で、友人の話を書いた。

彼らの素晴らしさを讃えると同時に、では彼らにとって私は良き友人なのか?とも考えてしまう。

友情とは、対等な関係のもとに成立するものだ。

彼らが私の欠点を補完する模範的人間であるならば、私は彼らに欠けているものをもつ人間なのだろうか。何かにつけて、貰ってばかりの関係性に甘えてはいないか。

そう思うと、声をかけるのが少し怖くなる。


彼らはいつも、「頑張っているね」と柔らかに私の不器用さを肯定してくれる。

私はいつも、自分の数歩先をゆく彼らを池の底から眺めている。泥臭くもがきながら、「同じ空気が吸えたらな」と肺呼吸に憧れている。

して、彼らがエラ呼吸に憧れている可能性は?


思い返せば、面と向かって「頑張っているね」と彼らに伝えたことはほとんど無いかもしれない。

そういうことを、私なんかに分かったような顔で言われる方が嫌だろうと思っていた。
彼らに比べれば、自分は知性も品性も劣る人間で、そんな奴からかけられる労いの言葉に価値はあるのかと疑問に思っていた。

でも本当にそうなのであれば、私の困った時に、彼らがいつも助けてくれるなんていうシチュエーションは成立しない。
事実ベースで考えるなら、私も彼らに何かしらの影響を与えているから、関係が今日まで続いているという説が自然だろう。


彼らも人間なので、当然ストレスや悩みがある。
そしてそれを誰かに打ち明ける時があると思う。
でもその相手は、私ではない。
そんなことは当たり前だと思っている節がある。
だって自分は彼らより劣る人間なので。

だとすると、私が彼らの横に立つ権利はない。
終生コバンザメのような存在でいて良いはずがない。私が彼らと友人で居続けたいと願うならば、やれることが山ほどあるだろう。

「私なんかが」とろくな言葉もかけられないのは恥を知るべきだ。自分を悲観する暇があるならば、自己研鑽してさっさと出来杉くんになってしまえ。

彼らが彼らとして生きることで、私の救いとなるならば、私も私としてしっかり生きることで、彼らの救いになりたいと思う。

困った時に頼られたいなんていうのは、烏滸がましいにも程がある。でもふとした時に顔が浮かぶような存在にはなりたい。

「僕の出会った人間の中で、𓏸𓏸ちゃんは一番ぶっ飛んだ人間だよ。」
と友人の1人に笑いながら言われたことがある。
「悪口か〜?」と返したが、少しほっとした。
彼の中で有象無象と処理される人間ではなかったことに。

これからも、一日一日頑張ります。






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