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弛緩、人生、糞――『君たちはどう生きるか』感想会

本記事は『SAPA』メンバーが宮崎駿監督作品『君たちはどう生きるか』について感想を述べあった会での発言を記録したものである(2023年7月26日収録)。参加者は、池田知徳、石野慶一郎、伊藤靖浩、野上貴裕の4名であった。

野上 とりあえず各自がもった感想を順番に話していくという形式で始めていきましょう。


「別の世界」から「別の生」へ(野上)

野上 まず、大叔父の作った世界は、やはり宮崎駿が自分の好きなものを詰め込んだ世界で、彼の好むイメージがずっと流れてくる。これまでの映画に出てきたシーンのようなものや彼の好きな絵画も含め、彼の原イマージュのようなもの。そこは完全に別の世界として作られているんですが、最終的に主人公は現実に戻ってくる。そこを取り出すと、別の世界ではなく別の生を生きろと言っているように聞こえました。それで「君たちはどう生きるか」。ここで私たちの現実を顧みると、「どう生きるか」という問いがこれほど空しく響く時代もないと思うわけです。つまり、「どう生きるか」という問いが「どうやって生き残るか」という戦略の問題に変換されてしまう。世界が狭いのでX(旧Twitter)ばかり見ているんですが、そこではやはり、もちろんパロディ的にではありますが、「どうやって金を稼ぐか」的な問いに変換している言説も多くある印象です。「生き方」というものが、たとえばフーコーの語を使えば「生存の美学」にとっての対象などではなく、たんなる生存のための手段に過ぎなくなってしまっている。それでもなお「どう生きるのか」と問いかけるこの作品は、悲痛な叫びなのか、後進に未来を託すという想いなのか。宮崎駿は『紅の豚』とか『風立ちぬ』でもどう生きるかという問題を扱っていたと思います。あの二作品は他のファンタジー的な作品群とは区別されるわけですよね。ポルコや次郎の、かっこよさとか飛行機によって形作られた生とか、そういうものってたんなる生死の問題では決してない。そこでは生きることと、どのように生きるかということが決して切り離せないわけです。ポルコにとって飛行艇に乗らない生は思考不可能だし、次郎にとって飛行機の製造に関わらない生などもはや生ではない。それらを描いた上で、のちの世代に問いかける問いとしての「どう生きるか」。そういう作品だったのかなと思いました。

それはそれとして、気になるのは大量の糞ですね。沢山落ちてくるわけですけど登場人物たちはほとんど誰も気にしてない。アオサギも最初の方で窓際をめちゃくちゃ糞で汚していくし、最後も登場人物たちがインコの糞にまみれながら抱き合っていた。これについても皆さんの意見を聞きたいです。


誰のための映画?(石野)

石野 一言で言えば、神話を作ろうとしたのかな、という感じを受けました。原典としての神話を。あるいは絵本を。だから既存のイメージがたくさん出てくるのも、ある意味必然で、というのは、それらが宮崎駿にとっては普遍的なイメージ、宮崎自身にとっての原型となるようなイメージだから。それは、想像力が枯渇したというのもそうなのかもしれないけれど、意図してやったことでもあると思う。つまり宮崎は今作で、牧眞人がファンタジー世界から一つ石を持って帰ってくるようにして、視聴者が現実に持って帰れるような典型的なフィクションを一つ作ろうとした。今作は一方では、私小説的に読めば宮崎自身のための映画なのかもしれないけれど、他方では子どもに向けても作っていたと思う。だからやっぱり宣伝はしてほしかったし、その意味では、牧眞人は宮崎駿でとか、青鷺は鈴木敏夫でとか、そういう作家主義的な読みをしても不毛だと思う。あるいは今作では、このパートは大平晋也でとか、井上俊之でとかいう、作画オタク的な見方もできるとは思うけれど、それもある種の作家主義であることには変わりなくて、子どものことを考えるときには、あんまり意味がないと思う。要するに、もっとアニメーション全体を見てみようよというのが今の気持ちです。


作家のアイロニー(池田)

池田 自分の感想がはっきりまとまってなかったので、野上さんとか石野さんの話を聞いて、ここはちょっと自分と違うな、というところを話せればと。野上さんは、宮崎駿のある種の栄光を駿自身が画面にしている、というようなことを言っていた気がするのですが、これについては自分も同意見です。といっても、僕はたくさんこれまでの宮崎作品を見ているわけでもないから、どこがどのシーンにあたる、みたいなことははっきり分からないんですけど。ただ僕が感動したのは、その生が、どれほど信じようとしても信じきれない部分を持っている、ということでした。その意味で僕は作家主義的に見てはいます。そこが石野さんと少し違います。やはり自分を笑うとか、自分を否定するモーメントが強くあったような気がしました。糞というのも、そういうものなのではないかと思っています。自分の描いたキャラクターが、自分に糞をする、というような。

それで、やはり大きく前半と後半、つまり門に入る前と後で分かれてると思うんですけど、その門の中は、異界なわけですよね。現実世界と異なる秩序で成り立っている世界。ミニチュア的にその世界の秩序を成り立たせるような、小さな積み石の描写もありましたが、それは外の世界と繋がってはいても、基本的には「別の時間」を成り立たせるためのものだった。だから、はじめから表象というか、すごくイマジナリーなものなわけですが、主人公はそれすらも、自分が再建する権利はないと思っているわけですよね。で、再建しないうちにいきなりクーデターが起きて、世界は壊されてしまう。そこには二重に否定が入っている。もともと現実とは違うものを作っていたし、そういう世界の秩序すらもふと、他の人に奪われて無くなってしまうという。そこが、作家の軌跡を振り返った時に、最も自分が感動したところでした。もちろん最後、一応異界の外に出て大団円にはなるんだけど、それも絵本的なめでたしめでたしでは片付けられないというか……。たしかに後半部は絵本みたいな感じで、冒険譚で進んでいくんだけど、やっぱり最後の大団円に僕はすごくアイロニーを感じて、それには子供向けとは言い難い部分もあるように思いました。

もうひとつ言い残しておきたいのは、みなさん前半と後半どちらが好きなのかな、ということですね。僕はこの映画を人と見てたんですけど、その人は前半部がよいと言っていました。で、それはよく分かるんですよ。母になるものに対するエロスがあるし、サギという異界からの使者にはとても緊張感がある。普通だったら、この緊張を維持して最後にそれを解消するというのが物語の常套だと思うんですけど、この映画ではそれは半分までしか続かない。門に入ったあと、サギと主人公の間には親和感ができあがってしまって、母が画面に登場しても、前半までの緊張感は失われている。一番決定的である母親を呼ぶシーンも、母親とその妹が同時に画面にいて、それがあまり方法として成功しているようには思われない。で、緊張感が切れた後は、旅にならざるをえないと思うんですよ、だから当然迷うし。ただひょっとしたら子供たちは、そっちが面白いのかもしれない。冒険になってるから。とはいえ、やっぱりアニメーションの完成度とか、カットの切り替わりを見た時に、前半のほうが洗練されてて、効果的なのではないかと思いました。みなさんはどのように見られていたのか、気になっています。


宮崎駿の想像世界(伊藤)

伊藤 最初に喋ればよかった、ちゃんとまとまってないです……でも面白く見ました。自分はそんなにジブリに詳しいわけではなくて、映画館で見たものもいくつかあるけど、テレビでやっているのをたまたま見たり、修学旅行の行きかえりのバスで見たりというような、一般的な認知とそれほど変わらない感じです。だから細かいことはわからないけど、例えば今回の映画の序盤、『風立ちぬ』と同じようなテイストの主人公が疎開してきますよね。その田舎の家には、主人公とは明らかにテクスチャーの異なるおばあちゃんたち、『千と千尋』に出てきそうなおばあちゃんたちがぞろぞろ出てくる。もし自分が『千と千尋』をまったく知らなかったとしたら、あれはめちゃくちゃ気持ち悪いと思うんだけど、でもみんなうっすらは知ってる、なんとなく見たことのあるテイストの画だから、気持ち悪くもあるけど、安心感もあるわけですよね。その効果って面白いなと思いました。

かつて昭和だったら、たとえば『男はつらいよ』とかが毎年正月、夏休みに映画を公開していて、みんな見たり見なかったり、でも風物詩として「またやってるな」みたいな感じで認知されていた映画だと思うけど、いまではジブリの映画がそういう役割、つまりフィクショナルではあるけど、毎年夏になると金曜ロードショーで戻ってくる「虚構の実家」みたいになっている気がする(必ずしも望んで帰るわけではないという点でもすこし似ているか)。うっすら慣れ親しんでいるけどテクスチャーはばらばらなイメージ群が、物語が展開する局面でぽんと並んだりして、なんの説明もなしに次の世界へ移行したりする。たとえば『千と千尋』テイストのおばあちゃんのひとり、キリコさんが、異世界のなかでは若くなっていて『風の谷のナウシカ』っぽいテイストのキャラになってるけど、そのあいだの移行状態とか変身とかの描写もなく、普通に変わっているわけですよね。それってとても変だし掟破りなのかもしれないけど、こちらも違和感をおぼえつつ受け入れているというか、安心して付いていってもいる。親しいけど年に一度しか見ない遠さ、その微妙な距離感を使ってるというのかな。あの映画が大人向けなのか子ども向けなのかっていう話もあったけど、少なくとも(なんとなく親しんでいる)大人にとっては、なんともいえない距離感のまま、冒険に没入するでもなく引いてしまうわけでもない感じで、童話をきいているような感覚があったので、とても面白いなと思いました。子どもがみたらどうなのか、普通に楽しいのかもしれないし、怖いのかもしれないし、そこはわからないけど。

あともう 1 つ言うとすれば、あの疎開先の家って、まず和風の家屋があって、その長い廊下の先に主人公一家の住む西洋風家屋があって、そしてさらに奥に謎の塔がありますよね。あと主人公にとっての大叔父って、最初の写真のイメージからして、日本人なのか西洋人なのかよくわからないような人だった。気が狂って塔のなかに閉じこもってしまったというと、なんとなくヘルダーリンを想起するけれど(もちろん全然違うモデルがあるかもしれないが)、そういうどう考えても矛盾しているようなものが、当人にとっては無理なく混在している不思議さ、それが1940年代の少年の想像世界なのかなあと思うと面白かったです。

大叔父って、親戚と他人、家族と先祖のちょうど境というか、内でも外でもある、内でも外でもないみたいなポジションだと思う。そこにすっぽり西洋的イメージがはまってしまうのは、西洋人はもはや「異人さん」でもなく、しかしありふれてもいなくて、ちょうど「大叔父」ってポジションだったのかしらと……。

塔についてもそうですよね。おばあちゃんたちはあの塔の石が空から降ってきたって言ってて、完全に神話というか伝説というか、昔風の世界観だけど、そう語っているおばあちゃんたちは実在していて、大叔父のほうはとうの昔に消滅している。色々捩れているけど、僕はその時代を生きている人間ではないわけだけど、あれを見ていて、なるほどそんな想像世界が組みあがるのかっていうのが、なんとなく納得できた。無理に色んな要素がつめこまれたのではなくて、変な進みかたをしてきた国のある時代には、あんな想像世界がぽんと出てきてもおかしくないなみたいな。

野上 あの建物の元となる石が降ってきたのって、確か維新の直後ぐらいで、そのあと15年ぐらい経って草に埋もれてたのを西洋かぶれの大叔父が見つけるって流れでしたよね。

伊藤 そう、外からやってきたものって感じなんだけど、その外さ具合っていうのが、大叔父とおばあちゃんと少年とお父さんと、あるいは我々が見るのと、全部色々ずれがあるわけで、それが全部一緒にごちゃってなったのがあの塔ですよね。さらにそこからインコの大群が出てくるっていうのも面白い……そういうごちゃっとしたものが、無理矢理色んな設定を噛ませて作ったんですというのではなくて、自然にそうなっちゃいましたっていう佇まいが、きっとそうなんだろうなと思わせるものがあったのが面白かったですね。


前半と後半と

石野 もう少し内容の話を続けましょうか。

野上 マンガの研究もしている石野としては、さっき池田が言ってくれた前半と後半という区分に従うとして、やっぱりアニメーションのテクスチャー的なものって大きく変わってるように感じる? 

石野 さっきの自分の話と矛盾するような話になるかもしれないけれど、自分の印象としては、アニメーション全体としては強度が足りないというのが率直な感想にはなる。さっきは子ども向けにも作っただろうとは言ったけれど、同時に、子どもが見たら退屈するだろうな、とも思う。つまり、牧眞人が持って帰った石、ないし積み木のように、現実に持ち帰れる作品を提示したかったのかもしれないけれど、受け手としては、この作品に素朴に感動できなかった。

その要因として、前半と後半もだけれど、全体的な統一感がないなという感じを抱く。噂されていることとして、これまでの宮崎作品と違って、今作は宮崎がひとつひとつの作画を細かくは修正できず、全体をうまくコントロールできていないのではないか、というのがある。実際のところは分からないけれど、でも自分もだいたいそんな印象を受けました。つまり、個々のパートは印象的で、アニメーションとして面白いかもしれないけれど、バラバラになっている。「個人プレイ」になってしまっている。たとえば、冒頭の火事のシーンは印象的だったかもしれないけれど、浮いているか浮いていないかと言えば、浮いているじゃない? それがむしろ「大平晋也だ!」と名指せるような読みを可能にしているのだけれど、全体として統一を欠くことには変わりない。だから、とりわけ前半と後半でテクスチャーが変わるとも言えるし、そもそも全体的にまとまりがないとも言えると思います。

池田 後半の書き割り感はすごかった。そのハリボテな感じを軽々しく晩年様式とは言いたくないというか、「頑張ってやってるけど、ちょっとどうしようもない」という感じには見えました。これまでそういうものを本当にやってきた人が、それでもできていないっていうことは、特に宮崎ファンだったら思うでしょう。そのことをここまで正直に画面に残したっていうのが、僕にとっては結構感動的なんですけど。

石野 うん、そうですね。老いに逆らえないってなったときに、それが表現にも出てしまうと。そういう自己反省の跡というか、痕跡が否応なしに残されてしまうさまをどう評価するのかというのはひとつポイントにはなる。そういう意味では、作家主義的な読みも必然だし、正当だと思う。そういう跡が残ってしまうけれど、それでも、最後に、というか厳密には最後かどうかは分からないけれど、これを残そうってなったのはある種感動的ではあると思う。

野上 実は最初見たあと、宮崎駿はもう一作やるつもりなんじゃないかって思ったんだよね(笑)

石野 最後の最後までやるのかっていうのは気になるところではあるよね(笑) 完成度の高い作品とかはこれまでのもので出し切ってしまった感はあるけれど、それでも作り続けるんだという姿勢を見せられたらグッとくる側面もあるかもしれない。

ちなみに、どういうところで「もう一作やるつもりなんじゃないか」って思った?

野上 一旦いろいろを清算しちゃったように見えた、というところかな。これまでの作品で出てきたイメージが煮詰められたとか、あるいは今回出てきたイメージが元々彼のもっていたイメージだった、とかいろいろ言われてるけど、自分には彼のなかに残滓として残り続けていた、あるいは彼が囚われていたイメージをあの異世界に詰め込んだように見えた。そこで出し切ったあとに、もう一回ジャンプするつもりがあるんじゃないかってエネルギーを感じたのかな。あんまりはっきりとした根拠はないけど。

石野 イメージの再生産みたいに見えるところをどう受け取るかだよね。自分としては、もう一回出力したというよりは、元からあったものを全部出したという印象に近い。幼少期から持っていたイメージの世界があれで、そこからむしろ『トトロ』とか『ハウル』とか、受け手からすればこれまで見てきたものだけれど、それを出力しましたっていう。だからむしろ膿を出し切ったともとれるかもしれない。


糞と汚れ

石野 それに関して「汚れ」の話につながると思う。汚れとか穢れって、これまでもなくはなかったよね。『もののけ姫』とか。伝統的な浄穢の話みたいなものはこれまでもあったように思う。

野上 今回の汚れ、つまり糞のことだけど、その最大の特徴は登場人物たちがそれを気にしてないというところにあるような気がする。言い換えると、むしろあれは糞ではない、つまり映画のなかで糞として同定できるようなものではなくて、むしろ画面外のものなんじゃないか。石野が『SAPA』のチェンソーマン論で分析しているように、画面外のものが画面のなかに侵入してきているようなものなのかなと。宮崎駿が画面を汚しているのだと考える可能性もあるんじゃないか。自分の最後の作品になるかもしれないものを綺麗なままにしたくない、みたいな。自分の作ったものが綺麗なままであってほしくないという気持ちを勝手に読み取ってしまいました。

石野 そうね、そういうテクスチャとして見るのもありかも。インコたちが門を出て元のファンタジー世界のインコたちとは認識されないように、糞もそういう認識されなくなる外部としてあるのかもしれない。

あと自分が思ったのは、汚れは今作のテーマでもある悪意と響き合うということ。つまり、悪意と共にあっても気にしないように、糞が共にあっても気にしない。共にあるということは共通する姿勢のように思う。


テーマの変化

石野 ところで悪意のテーマって前半で解決しているよね? 自分で頭を傷つけて、『君たちはどう生きるか』を読んで、それでもう悪意があることを引受けても立派に行きていくんだ、みたいな。それで解決している気がする。

だから門をくぐる意味があまりないというか……そこからはトラウマを解決するパートに入ってしまって別にファンタジー世界に行かなくても生きては行けた気が……。

池田 そうですね、本当に物語として締まったものを完成させるという意味では、行かないほうがよい。門の中に入った後、「本当にどうしよう」ってなっている感じに見えるんですよ。そこにやるべきことがあるとは宮崎自身も思っているんだけど、では何をすればよいのか? それには多分、今までの宮崎駿のスタイル、つまり、ちゃんと物語を作るというスタイルでは到達できない。だから本当に無意識だと思いますよね。まあ、夢みたいだし。もちろんそこにトラウマも絶対あるんですけど、いわば心の暗がりみたいなのに入っている感じに見えるんです。

石野 そう、だから夢だよね。夢だし、お母さんが火を操れるからいいってことになる。だから別に、物理的には何も解決してない。母親の前で牧眞人が生きていきますって宣言をして、母親がお前を産めるんだったら死んでもいい、みたいに言う。だから精神分析的な領域に足を踏み入れているというのはとても分かります。

池田 だから、自分で自分で頭を傷つけるというのは、さっき野上さんが語った、宮崎駿が画面を汚しているのではないかという話にもつながっているし、すごく精神分析的な解釈の余地がある。

野上 とはいえ精神分析に回収してしまうのも面白くないよね。特に、ただ精神分析の物語りに当てはめるだけのものはやってもそんなに意味がない。

石野 そうね。精神分析を使って精神分析も乗り越えられたらこのジャンプは楽しいけれど、精神分析を使って、精神分析の物語に回収され切ってしまったはつまらない。


塔のなかの世界でのさまよい

野上 さっき池田が言ってくれた、眞人が塔に入ったあとほんとにどうしたらいいか分からなくなってるっていうのは本当にそうだと感じた。これまでの宮崎作品には、そういう主人公あんまりいなかった気がする。本格的にさまよってる。

石野 そう、「さまよってる」で思い出したけど『Sonny Boy』だよねこれ。
〔※註:『SAPA vol.2』で野上は『Sonny Boy』論を書いた。〕

野上 さまよっているよね。

石野 あれもひと夏かけて「漂流」して、けれど、言ってみれば、そんなに何も変わらなかったっていう物語だったと言えると思う。それと似てないかな。「ほんとにどうしたらいいか分からなくなる」っていうのは。

池田 まあ、そうですね。ただ少しだけ方向修正したいんですけど、物語上は一応やるべきことがあるわけですよね。そこで見つけ出すべきものが、母親なのか夏子なのか曖昧だというのがまず面白い。最初は、母親が異界にいるという話をサギが伝えに来るわけだけど、本当に眞人がそこに行こうと決心するのは、夏子が連れていかれるから。彼女が「お父さんの好きな人だから」です。自分のために助けたいということでもない。受動的に振りかかってきた試練が、自分の元々求めていたものを探し出す作業と重なってゆく。それで、これはめちゃくちゃタブッキ〔※註:池田の研究対象であるイタリアの作家アントニオ・タブッキのこと〕じゃんと思ったんですよ。求めてる対象の名前や顔が似ていて、それを探し求めようとするんだけど、緊張の糸が切れて途中で夢みたいになってしまい、さらに迷う、みたいな。タブッキを研究している僕には、これはとても親しみ深い物語構成なんですね。

石野 なるほど。最初はいわゆる母性のディストピアなのかなと思ったけれど、夏子さんを助けるのはお父さんが好きな人だからで、そこには父権的な権力も相当に働いているなとたしかに思います。

池田 どちらにしろさまよってはいますよね。ただ、全く目的がないわけでもない。

野上 物語の構成がさまよいを示しているような感じもする。まず目的があいまいで、かつどこに行けば目的が達成されるのかをちゃんと示してくれる存在も出てくるわけではない。もちろん一点から一点への移動のときに連れてってくれる人はいるけど、全体を統御する方向性が見えてこない。最初も、アオサギが大叔父に言われて眞人を案内するということになるけど、沈んでいったら変な門のある場所で一人にされて、なにをしたらいいのかも分からないからとりあえず門を開けようとしてみる。するとキリコさんが来て一旦家まで連れていってくれるけど、次はアオサギにバトンタッチ。でもアオサギもすぐに去って今度はヒミが現れてナツコのところまで一応連れて行ってくれるけど肝心のナツコには拒絶される。とかとか、こう書いてみるとちゃんと繋がっているようには見えるけど、実際画面を見たら場面が変わるごとに背景のタッチもがらりと変わるし、場面ごとにぶちぶち切れているように感じる。眞人の意志の無さもあいまって、気づいたらそこに来ていた、というような。

池田 普通だったら多分サギが、異界においても主人公とある種の緊張関係を保ちつつ、主人公を目的地へ引き寄せていくのが常套だと思うんですけど、なんか友達になってるし(笑) わけわかんないと。そこがでも面白かったですね。異界巡りって、ダンテの『神曲』とかもそうだけど。普通導き手がちゃんといる。そういうのがいないっていうのはまあ、もちろん現代的状況ではある。だから、全体として僕は緊張の意図がほどけてることを肯定的に捉えてはいますね。でも、ダメっていう人はたくさんいるだろうな。


弛緩と笑い

野上 弛緩した感じというのはすごくよく分かる。たまたまベルクソンの『笑い』を最近読んでいたので言ってしまうけど、その弛緩こそ笑いというものがもたらす効果なわけですよね。気が抜けるというか。それが最初の方で池田が言っていた、宮崎駿が自分を笑っているという印象とも繋がっている感じがする(もちろんアイロニーの笑いとはニュアンスが大きく違うだろうけど)。いまいち筋のつながりがないところとか、もはや存在として緊張のないインコとか。「大王様、ここは天国でありますか~?」みたいな。

石野 そうね。自分も弛緩した感じは評価しているから、アニメーションでもっともいいなと思ったのは、おばあちゃんたちが全員で横に歩いて、みんながみんな歩き方が違うところ。ジブリの描けるおばあさん全部乗せみたいな。オールスターです、みたいな(笑) それが良かったから、むしろ弛緩しているところの方が、アニメーション的には緊張してる、みたいな逆説的な面白味はあったかもしれない。

野上 おばあちゃんたちがお父さんのトランクに群がってうねうね一つの塊になってるとこがすごいよかったよね。まっくろくろすけっぽさもあった。

石野 うん、子供が見たらマジで怖いと思うけれど、でもそういうのが良いんだよ。『千と千尋』とかも、子どものとき、初めてみたときは泣いたし。だからそういう意味ではやっぱり子どもにこそ見てほしいと思う。子ども ”向け” ではないかもしれないけれど。体験は残ると思うから。だからさっきも言ったけれど、宣伝はしてほしかった。

野上 自分も子どものころ『千と千尋』を観て劇場から逃げ出したのを憶えてる。最初の方で千尋が湯屋の外側の階段を駆け降りていくシーン。釜爺まで辿り着けなかった。

池田 めっちゃいいエピソードですね。

石野 うん、だからさっきはベルクソンの『笑い』の話が出たけれど、バタイユ的な笑いがあってもいい。つまり、何か怖かったり恐ろしかったりするけれど聖なるものに値するような未知のものとの契機としての笑いのような。これは個人的な体験だけれど、昔のポケモンって、本当に何もないけど開かない部屋とか、なぜか砂嵐になってるテレビとかがあって、本当に怖かった。そういう体験はずっと残る。だからおばあちゃんとか出したほうが良い。

池田 おばあちゃんをあれだけ描けるってちょっと尋常じゃないですよね。

石野 いや尋常じゃないよね。本当に凄い。それに対して夏子さんは妖艶すぎる。なまめかしすぎる。キャラデザの問題かもしれないけれど、やっぱりいままでの宮崎作品にはいなかったタイプの女性なので、それに比べるとおばあちゃんがよけい際立つ。

野上 石になって守ってるおばあちゃんもいい。

伊藤 ね、またいでいくよね。ばかばかしいっちゃばかばかしいけど、めっちゃ良いなと思った。普通に倒しそうだけど、あ、ちゃんと倒さないんだみたいな。

野上 あそこには緊張がありましたよね(笑)

伊藤 守れないことはないが、「その約束っていったい何?」っていうような、中途半端でほのぼのした障壁があるのが、まさにおばあちゃんとの約束という感じがしてとてもよかった。


インコと反復

伊藤 ちょっと戻っちゃうけど、インコの話がありましたね。それで思ったのは、たとえば『千と千尋』だったらマスで蠢いていた魑魅魍魎たちは、それぞれに奇怪な形と運動があって、パッと見て全てを認知できないような画になっていた。しかしあの塔の中ではインコはずっとインコのままなんですよね。永遠に反復されるコピペというか。インコは人間の言葉の模倣者でもあるわけですし、そもそも眞人は、お母さんの言葉を模倣するサギに誘われて塔に入っていった。さっき、宮崎駿がこの作品で「膿を出した」っていう言葉があったけど、それってどういうことなのかなっていうのを少し考えていたんですよね。既存のイメージの反復と再利用、そこで消化されるものと、糞として排出されるものってなんだろうかって。

石野 真似るっていうのは大事なんじゃないんですかね。最後積み木を崩すのも、真似をする動物であるところのインコの大将みたいなやつで……。そこはいろいろ読み込める気がする。

伊藤 そうですね。それに眞人のお母さんとその姉妹の夏子さんの関係とかも模倣のバリエーションですし。

中身のない模倣、つまり「鸚鵡返し」って、剽窃のようにオリジナルを損なうだとか、身の丈に合わない愚かさの象徴だとか、そういう悪しきものという方向性もあるけど、一方でどこか楽園的イメージ、どこまでもコピペが豊かに繁茂して際限がないというのは、幸福な状態でもある。それが最後には糞をまいて飛び去ってゆく。だからそれは、勿論一般的なハッピーエンドとはまったく異なるけど、果たしてそんなに自罰的なものなのかしら、とは思った。

野上 インコも確か大叔父が異世界に持ち込んで勝手に増殖していったという話でしたよね。ほとんど全部コピーというかシミュラークルのように見えるインコが、どんどん増えてほとんど世界を埋め尽くしちゃう。それで最後は解放される、という。眞人の母親の似姿を作ったアオサギとか、それこそいままでの宮崎作品のイメージの類似性とか、模倣や類似性というのは大きなテーマになっていると言えそうですね。彼のイメージ世界ではどんな「インコ」が反復され、増殖していったのか。そしてそれが糞を落としつつも「解放」されたというところに、一つの可能性を自分は観ているのかもしれない。

池田 名前忘れてしまったんですけど、白い小さいやつ〔※註:ワラワラ〕がいっぱい出てきますよね。あれも結局は、全部食べられそうになるから、なんか火を撒かれていったん仕切り直しになるみたいな感じになってたけど、すごい摂理って感じがしますね。大きな動物を小さいやつらが食べて、そのエネルギーで小さいやつらは上っていこうとするんだけど、また消されて。そこではたしかに、変わらない秩序、摂理はあるんだけど、でも結局それは壊れてしまうわけじゃないですか。もちろん最後、門が開かれて大団円になるんだけど、それってどうなんだろう。たぶん、変わらないっていうことと、なにかが変わる、全てが崩壊するっていうことの、本当に境目なんだと思うんですよ。

石野 たしかに。『もののけ姫』のこだまみたいなやつとペリカンがいて、命も命を食べないと生きていけませんみたいな。そういう摂理が最後まで貫かれている感じはある。


宮崎アニメのマテリアル

野上 話は変わるけど、今回の作品では特に、身体に絡みつくものにものすごく拘ってる感じがした。最初下駄がすごい脱げづらかったり、服を着る仕草、特にズボンを履く仕草とかめちゃくちゃ丁寧に描いてる。カエルもぬたぬた登ってくる。ペリカンに襲われてる場面とか、あとはナツコの産屋では紙がめちゃくちゃ貼り付いてきて怖い。剥がすと赤くなるほどくっついてくる紙。あれは『千と千尋』の式神みたいなやつのイメージとつながってそうだけど。ともかく、普通には親しみのあるようなものが突然絡みついてくるということへの恐怖なのか何なのか、そういう感覚があるように思える。

石野 自分がすごい嫌だなって思ったのは夏子さんが、牧眞人の腕をぐって引っ張ってお腹を触らせるところで、あれも接触だよね。たしかにお互いいろいろな背景があって、夏子さんも夏子さんで負い目を抱えていてそれが裏目に出た行動だったのかもしれないけれど、それはそれとして気持ちが悪い。突然絡みついてくる恐怖だと思う。

野上 あと宮崎アニメでは布が生きているような動きをするよね。場面に合わせて勝手に膨らむとか。ナツコが眞人の手をお腹にもっていくシーンでも、布が手を迎え入れてるような気持ち悪さもあった。あと髪の毛も勝手に膨らむ。『風立ちぬ』でも結婚式のシーンで菜穂子さんの髪を意図的に膨らませてるみたいなインタビューを読んだことがある。

石野 そうだね。自分はヒミが牧眞人を食卓に招くシーンでそれを感じた。あれはアニメーション的に素晴らしくてアニメーション的快楽がすごくあるシーンだったと思うけれど、これでもかっていうくらい手を大振りで振って食べたりする。すごく外に膨らんだ動きをしていたように思う。


共通言語としての「ジブリ」

石野 今日ここまで話してきて思ったのは、共通言語をつくるという意味ではやはりジブリは強力だということですかね。湯婆婆みたいな顔でとか、釜爺みたいな足でとか言えばイメージが共有できる。そういうのは強力だなあ。

野上 「ジブリ的なもの」という言葉がある程度通じる、ということだよね。

石野 うん。たとえば「選ばない」ということすらも、『千と千尋』のラストみたいに、と言っておけば通じる。お父さんとお母さんここにいない、みたいな。もちろんそれはジブリの権威性と表裏一体なわけだけれど。これで日本中でアオサギを知らない人はいなくなったわけでしょ?

野上 わき道に逸れるただの逸話ですけど、実家の隣が田んぼでそこにアオサギがよく来ていたのを思い出しました。子どものころは友達とみんなで追いかけたり追い払ったりしてて。そうするとアオサギって飛んでは行くんですけど、そんなに遠くまではいかなくて見える範囲にまた降りてくる。あの気持ち悪い感じも上手かった、のかなと。……尻切れトンボですが、時間も時間なので終わりましょう。本日はみなさんどうもありがとうございました。

池田知徳(イタリア文学)
石野慶一郎(思想史・表象文化論)
伊藤靖浩(フランス文学)
野上貴裕(哲学・思想史)


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